不測の時代の良い会社 ③
改めて、 エドワーズ・デミングについて、調べてみました。
—–インターネットより抜粋—-
エドワーズ・デミング – 日本の品質経営の父【カイゼン偉人伝】
07.28.2020
エドワーズ デミング博士の戦後日本に対する貢献と友情は偉大でした。
この記事ではデミング博士が戦後どのような状況で日本に来てどのように
SPC(統計的工程管理)を指導してくださり、またデミング賞の誕生秘話の
話もしています。
Contents
1. エドワーズ デミングとデミング賞
こんにちは、リーンシグマブラックベルトのマイク根上です。
物事をより深く理解する為にその歴史を勉強する事はとても良い事ですね。
そこで「カイゼン偉人伝」シリーズを始めました。
世界のカイゼンに貢献した偉人達を毎回ご紹介していきたいと思います。
この記念すべき第一回のカイゼン偉人は日本の品質経営の父、エドワーズ・
デミング博士です。
製造業の人なら必ずデミング賞という言葉は聞いたことがあるでしょう。
その賞は品質管理で傑出した企業や個人に与えられるものです。
英語のWikipediaではこう書いてあります。
「この賞は世界で一番歴史があり、一番広く認知された品質管理の賞である。」
日本だけだと思っていた人も多いんではないでしょうか。
この賞はエドワーズ・デミング博士の日本での品質管理への貢献と日本への
友情から生まれました。
2. 日本の製造業を救ったデミング博士
デミング博士はアメリカ人の統計学者でコンサルタントでした。
戦後直後1947年に、日本の国勢調査を実施する時、米軍の要請で彼は初めて
日本に来ました。
当時の日本製品は粗悪品の代名詞でした。
米国製品との圧倒的な差に日本の経営者はわらにもすがる思いでした。
そこで米国の品質管理の専門家でもあるデミング博士に彼らは講義を依頼
しました。デミング博士はその時に一抹の不安が有ったと言います。
当時、米国製品は世界一で、それを脅かす国も有りませんでした。
米国の経営者達は、デミング博士の説く品質管理の重要性には全く興味が無く、
生産量を上げる事が最大の関心事でした。
デミング博士は米国では無名でした。彼の教えに価値が無かったのでは無く、
先進過ぎて、無視され続けたのです。
彼もそんな米国企業に失望していました。⇒「PDCAサイクルの活用法:
そのような状況で日本で講義をする事になって、彼はまた理解されずに
無視されるのではないかという不安を抱いたのです。
しかし、その不安はすぐに無くなりました。
最初の講義後にも勉強熱心な経営トップ人達がどんどん彼の所に来たのです。
彼は品質管理手法だけで無く、品質経営手法も教えました。
彼にとってこんな事は初めてだったのです。
1950年のデミング博士による東京講演
もう一つ彼を驚かしたのは、日本では普通の労働者でさえ、彼の手法に
必要な基礎数学に長けていたことでした。またトップから前線の従業員
まで全員が同じ目標を持って頑張っている事に彼は圧倒されたと言われ
ています。
彼と日本人の間に友情も芽生えて、彼はその後毎年のように日本を訪れ
ています。その後日本は高度経済成長を達成し、米国の製造業をも凌駕
していきます。
3. その後のアメリカでのデミング博士の活躍
彼のドラマはまだ続きます。
1970年台後半に日本に遅れを取った米国企業が日本に視察に来ました。
工場のあちこちにPDCAと書かれて「デミングサイクル」と呼ばれてたし、
誰もがデミング博士の事を話すので、米国では無名の統計学者が日本では
品質管理のグルになってるのを知ったのです。
その後彼について「If Japan Can Why Can’t We(日本にできて、なぜ我々に
できないのか?)」というテレビの特番が1980年に放映されて、脚光を
浴びることになったのです。その時彼は80歳でした。
そして全米で車椅子に乗って講演したという事です。
それが彼が亡くなる93歳まで続けたし、その年に最後の本まで書いたと
いう事ですから凄いですね。
彼によってその後米国に統計的手法が広がってシックスシグマが生まれる
ベースが出来たわけです。ということは彼のおかげで僕はブラックベルトとして
このアメリカで仕事が出来ている、ということですね。
彼はいつも礼儀正しく、生活も質素だったと言います。
日本で彼の本の売上の印税がかなりあったみたいですが、彼はその受取を
拒否しました。それを原資に「デミング賞」が作られたという事です。
彼は本物ですね。彼の教えは製造業以外に対しても適応出来ます。
僕は製造業以外の人もデミング博士の功績に感謝する日が早く来てほしいと
願います。
如何でしたか、参考になりましたら幸いです。
この続きは、次回に。