田中角栄「上司の心得」⑱
第2章「交渉力」の極意
・通産官僚が「当代一流の弁舌能力」と舌を巻いた、田中通産相
「交渉事はニガ手」とするビジネス社会のリーダー、上司の〝寿命〟は
長くない。なぜなら、商談そのものはもとより、部下への説得、社内融和
などに向けて汗をかくのも、すべからく交渉事という側面があるからだ。
一方で、リーダー、上司は、そのポストに応じた商談効果を出さねば
ならない。目標数値の達成が、不可欠である。
ために、リーダー、上司は、交渉術のツボを熟知しておく必要がある。
政界で言えば、田中角栄は「交渉術の達人」とも言われた。
田中とライバル関係にあった福田赳夫元首相などは、「角さんとのサシ
での会談はイヤだ。あの迫力に丸め込まれる」と、〝逃げ腰〟の弁を口に
したことがあったのである。そうした田中の「交渉力」の極意が全開された
好例は、首相になる直前の通産大臣時代に直面した、佐藤栄作政権の難関
でもあった「日米繊維交渉」での果断な交渉過程に見ることができる。
時に、日米関係は今日の両国の貿易状態と似ており、米側は貿易収支悪化の
原因は突出した対日貿易の赤字にありとし、「とくに日本の繊維製品の
対米輸出増ぶりは容認できない」とし、大幅な繊維製品の輸出自主規制を
求めてきたのだった。しかし、この自主規制には日本国内の繊維業界が
猛反対、ためにそれまでの交渉を1ミリも前進させることができなかった
のだった。この行き詰まりを懸念した佐藤首相は、昭和46(1971)年7月の
第3次改造内閣を機に、それまで自民党幹事長だった田中角栄をあえて
辞任させ、この通商交渉を担う通産大臣に起用したのだった。
じつは、佐藤とすれば、これ以上この交渉の膠着状態を続けているわけ
にはいかないという事情があった。
なぜなら、この時点、すでに佐藤首相と米側は翌47年5月の「沖縄返還」を
合意しており、この交渉が大きな進展なしとなれば米側がヘソを曲げ、
沖縄返還に支障が出かねないという懸念もあったからであった。
逆に言えば、米側はそうした佐藤首相の〝足元〟を見て、大幅譲歩を
迫ってきたということでもあった。すなわち、佐藤とすれば、内閣の
命運もかかったなんとしてもここで決着させなければならない交渉という
ことであった。ために、それまでの大蔵大臣に起用したということだった。
一方で、田中もまた、勝負どころの大臣ポストではあった。
佐藤は沖縄返還後の退陣を事実上決めており、田中はその「ポスト佐藤」
での天下取りを決意していたからである。
自民党総裁選となれば、時の外務大臣の福田赳夫との一騎討ちが必至
だったことにより、この交渉を決着させられるか否かは総裁選への勢いを
決めることにもつながり、田中にとっても、〝土俵際〟の交渉の場で
あったということだった。
● 融和
うちとけて互いに親しくなること。「融和をはかる」「仲間と融和する」
この続きは、次回に。