田中角栄「上司の心得」2-⑲
● 「フルネーム」での声がけは、意外な信頼感、親近感を生む
例えば、外でたまに知人に会ったとき、「山田さん!」と声をかけられるのと、
フルネームで「山田一郎!」と呼ばれるのとでは、親近感を持つと言う点では、
断然、後者に軍配が上がる。そこまで自分のことを覚えていてくれたのかと、
相手への信頼感も、またグッと変わってくるということである。
田中角栄も、よくこの〝手〟を使ったのだった。
大蔵大臣時代、ふだんは滅多に接触のない若手の課長あたりと廊下ですれ
違うと、例えばこう声をかけたものだった。
「おっ、鈴木二郎クンじゃないか。元気か」
課長はビックリしたあと、思うのである。
<オレは一課長に過ぎないが、大臣は自分の氏名をフルネームで覚えて
いてくれたのか>と。同時に、いささかの感慨とともに、改めて田中への
親しみを覚えるということになる。
田中は大蔵大臣に就任すると、本省の課長以上の役人の氏名、経歴から
政治家で親しいのは誰かなどまで調べあげた顔写真付きの「調査表」を
つくり、すべて頭に叩き混んでいたとされている。
それを存分に機能させ、人心収撹の具としたということだった。
記憶力は抜群だから、「調査表」の中身は大方、頭に入っていたのである。
しかし、さしもの田中も、多忙を極める中で時にフルネームを忘れることが
ある。こんなとき、新潟の選挙区では、数年ぶりに会った支援者にこんな
支援者にこんなテクニックでフルネームの氏名を引き出すのだった。
「やあ、しばらくだ。元気か。ところで、あんたの名前が出てこないのだ—-」
「渡辺ですよ」「そんなことは分かっているさ」
まず渡辺と聞いて、記憶力抜群の田中は、数年前の出会いの光景を即座に
思い出すのである。そして、言うのだった。
「ワシは、君の親父さんとは彼が村長の頃からの付き合いだった。
ばあちゃん(母親)は、若い頃、村一番のベッピンさんだったナ。
ところで、君の下の名前は何だったけ」「三郎ですよ」と返ってくると、
続けたものである。
「そうだ、そうだ。渡辺三郎さんだ。たしか息子が二人いたが、もう嫁も
もらっただろう」〝タネ明かし〟をすると、何ということはないのである。
このとき、田中は忙しくて選挙民の名前を忘れていたのだが、下の名前を
忘れたフリをして、氏名すべてを引き出してしまったと言う〝高等戦術〟
だったのだ。このあとは、田中と「渡辺三郎さん」との距離感は一気に
縮まり、改めて田中はこの支援者の気持ちをガッチリ抱え込んでしまったと
いうことだった。「渡辺三郎さん」が、選挙のとき、改めて田中の票集めに
汗を流したことは言うまでもないのである。
- 親近感
自分に近いものと感じて抱く、親しみの気持ち。「似た境遇に親近感をもつ」
● 軍配を上げる
相撲で、行司が勝ったほうの力士を軍配団扇 (うちわ) で指し示す。
転じて試合や競争などで、勝利・優勢の判定を下す。
● 信頼感
信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。
「信頼できる人物」「両親の信頼にこたえる」「医学を信頼する」
● 人心収撹
人々の心をうまくとらえてまとめること。また、人々の信頼をかちえること。
▽「人心」は多くの人々の心。「収攬」は集めてつかむ、にぎること。
● 高等戦術
目標を実現させるために人を陥れる(計略けいりゃく)
● 計略
目的が達せられるように前もって考えておく手段。また、相手をだまそうと
するたくらみ。はかりごと。策略。
「相手の計略にひっかかる」「計略をめぐらす」
この続きは、次回に。