お問い合せ

P・F・ドラッカー「創造する経営者」㊿-13

(6) 顧客の企業に対する関心は些細なものである

 

市場にとっては、いかなる製品、いかなる企業も重要な存在ではない。

最も価値があり、最も望まれている製品でさえ、多様な製品、サービス、

満足の一部にすぎない。

もし、顧客が自社の製品のことを少しなりと考えてくれたとしても、

それは、まことに些細な関心にすぎない。顧客は、いかなる企業いかなる

産業も気にかけていない。市場には、社会保障や先任権や年金のたぐいは

ない。市場は無情であって、最も忠実な者に対してすら、一文の解雇手当も

払わずにお払い箱にする。企業の倒産は、従業員、納入業者、銀行、

労働組合、地域、国にとって大惨事である。しかし、市場にはさざ波さえ

起こらない。

これは企業にとって受け入れにくいことである。誰でも、自分が行う

ことやつくるものは重要である。当然企業の人間も自分の企業とその製品を

中心にものを見る。しかし、顧客は通常それらのものを見てもいない。

はたして、どれだけの主婦が洗濯物の白さについて熱心に話をしている

だろうか。そのような話題は主婦の話題の最下位に近い。

にもかかわらず、洗剤の広告は、白くなることばかりを繰り返す。

洗剤メーカーの紹介者はみな、洗剤がどれだけ洗い落とすかが主婦の最大の

関心事であり、絶えざる興味の的であり、常に比較していることであると

信じ込んでいる。もちろん、彼らがそう信じているのは、単にそれが彼ら

自身の関心事であり、興味の的であるからにすぎない。

 

(7) 決定権をもつ者、拒否権をもつ者

 

ここまでは全て誰が顧客かは分かっているという前提に立っていた。

しかし、マーケティング的アプローチによる分析では、誰が顧客かは

わからないという前提に立たなければならない。

顧客とは、支払う者ではなく買うことを決定する者である。

かつて、医薬品メーカーの顧客は、医師の処方箋や自分の処方によって

薬を調合する薬剤師だった。しかし今日、処方薬の購入の決定は医師が

行っている。

それでは、患者は、医師が買ってくれるものについて支払いを行うだけ

という、純粋に受け身の存在なのか。

それとも、患者や一般大衆は、いわゆる特効薬の宣伝によって関心を

もたされるようになった結果、今日では医薬品の顧客になっているのだ

ろうか。さらにまた、薬剤師は、医薬品メーカーの顧客という地位を完全に

失ってしまったのだろうか。

医薬品メーカーの間でも、これらの疑問に対する答えは分かれている。

しかし、答えがちがえば、とるべき行動も違ってくる。

 

購入の決定権を持つ顧客は、少なくとも二人いる。

最終購入者と流通チャネルである。

 

缶詰メーカーには主たる顧客が二人いる。主婦と食品店である。

食品店が陳列してくれなければ主婦も購入してくれない。

主婦が自社のブランドに忠実であって、棚になければ、目につく棚にある

他社の有名品を買わずに、ほかの店まで探しに行ってくれるなどと考える

ことは、自己欺瞞にすぎない。

しかし、最終購入者と流通チャネルのいずれが、より重要であるかは、

多くの場合簡単には決められない。

例えば今日では、消費者を対象にしている全国向けの広告が、小売業者に

対して効果的であり、彼らを販促に動かすうえで役に立つことが明らかに

なっている。

他方、隠れた説得者としてもてはやされている小売業者でさえ、たとえ

広告の支援があったとしても、何らかの理由で買おうとしない消費者に

製品を売りつけることはできないということも明らかになっている。

しかも、消費者よりも生産財のほうが、誰が顧客であるかを決めることが

難しい。機械につけるべき動力機器の部品メーカーにとっては、流通

チャネルは誰なのだろうか。機械メーカーの購買担当者か、仕様を決める

機械メーカーの技術者か。それとも完成品の機械の購入者か。

完成品としての機械の購入者は、モーターの始動機や制御機器などでも

部品をどの部品メーカーのものにするかについては、通常、決定権は

もっていない。しかし拒否権はもっている。

したがって、ここに挙げた者は全て顧客である。そして、それぞれの

レベルのそれぞれの顧客がそれぞれの欲求、習慣、期待、価値観をもって

いる。少なくとも拒否権を発動されることのないよう、彼らすべての

顧客を満足させなければならない。

 

● 自己欺瞞(じこぎまん)

自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを

知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。2014/11/03

 

この続きは、次回に。

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