P・F・ドラッカー「創造する経営者」㊿-73
○ 新しい現実が見える
ここで、重大な問いが出てくる。「予測されているものは、今後一○年、
一五年、二○年後に起こるものなのか」であり、「本当は、すでに起こって
いるものなのではないか」である。
実は、ほとんどの人は、すでに見てしまったものしか想像できない。
一般に受け入れられている予測というものは、実は、未来についての
予測ではなく最近起こったことについての報告であることが多い。
このことを教える有名な例がアメリカにある。
一九一○年前後、ヘンリー・フォードの事業が成功し始めた頃、やがて
自動車は国民の輸送手段になるであろうとの予測が現れた。
しかし、それには少なくとも三○年はかかるだろうとされていた。
その時、ウィリアム・C・デュラントが、「それはすでに起こっている
ものではないか」という問いを発した。そしてこの問いを発するや答えは
明らかだった。まだはっきりと現れてはいなかったが、すでにそれは
起こっていた。すでに国民は自動車を金持ちのおもちゃとしてではなく、
輸送手段として見ていた。
つまり、もはや自動車メーカーは、大量生産の大企業でなければならなく
なっていた。デュラントは、この洞察からGMを構想し、新しい市場と
機会を利用すべく中小の自動車メーカーと部品メーカーを吸収合併して
いった。
したがって最後に発すべき問いは、「われわれ自身は、社会と経済、市場と
顧客、知識と技術をどう見ているか。それは、いまも有効か」である。
イギリスの中流以下の家庭の主婦は、食品の購入や食事について徹底して
保守的であるとされていた。しかし食品流通業のある二社は、すでに
一九四○年代後半に、「それは、いまも有効か」との問いを発し、その
答えがノーであることを知った。第二次世界大戦による食糧難を経験し、
保守的だったイギリスの主婦も新しい食品や流通に慣れ、新しいものを
進んで試すようになっていた。
すでに起こった未来を見つけ、その影響を見ることによって、新しい知覚が
もたらされる。新しい現実が見える。まず必要なことは見えるようにする
ことである。できることやしなければならないことは、そのあと簡単に
見つかる。
言い換えるならば、機会とは、遠くにあるものでも曖昧糢糊たるものでは
ない。しかしまず初めに新しい事態を認識しなければならない。
いくつかの例から明らかなように、未来を知るうえで、すでに起こった
未来を見つけるという方法はきわめて有効である。
もちろん、そこには大きなリスクがある。それは、起こりつつあると
信じていること、もっと悪いのは、起こるべきであると信じていることを
実際に起こっていることとして見てしまうことである。
このリスクはきわめて大きい。したがって内部の者が一致して歓迎する
ものの見方については、常に疑ってかからなければならない。
もしみんなが「これこそ、待っていたものである」というならば、事実の
報告ではなく願望の表明にすぎないおそれがある。
すでに起こった未来を見つけるという方法が有効なのは、深く染みついた
考え方や、仕事の仕方や習慣に疑問を投げかけ、ひっくり返すからである。
企業の構造とまではいかないにしろ、企業活動のすべてについて、変革の
ための意思決定を余儀なくさせるからである。
すなわち、今日とは違う企業をつくるための意思決定をもたらすからで
ある。
● 曖昧糢糊
はっきりせず、ぼんやりしているさま。 あやふやなさま。
▽「曖昧」も「模糊」も、ともにぼんやりして不明瞭(ふめいりょう)な
さま。 「模」は「糢」とも書く。
この続きは、次回に。