「道をひらく」松下幸之助 ㊿+21
・身にしみる
一生懸命にやっていたつもりでも、何かのキッカケで、身にしみる思い
をしたときには、今までの一生懸命さが、まだまだ力足りぬことに気が
つくことが多い。
身にしみるということは、尊いことである。ありがたいことである。
ものごとをキチッと誤りなくなしとげるためには、事の大小を問わず、
そこにやはり身にしみる思いというものが根底になければならないの
である。
今日、小さなビル一つを建てるのに、文明の利器をフルに利用しても、
一年半はかかる。ところが、あの豪壮華麗な大阪城が、諸事不便なあの
時代に、わずか一年半で築造されたという。その大業の根底には、築造に
従事した人びとに、ヘタをすれば首を切られる、やり通さなければ首が
とぶという生命をかけた真剣さがあったのである。そのことのよしあし
は別として、生命を失うかもしれないということほど、身にしみるもの
はない。
おたがいにともかくも、きょう一日の仕事をつづけている。ともかくも
一生懸命であろう。しかし今一度、ほんとうに身にしみる思いで、自分の
仕事をふりかえってみたい。
● 利器
● 豪壮華麗
「豪壮華麗」とは豪勢で立派ではなやかなことをいいます。
● 大業
・正常心
火事になればだれもがあわてる。たいへんな非常事態で、だからなり
ふりかまわず、他人の足をふんででも、まず火を消さねばならぬ。
物を持ち出さねばならぬ。人の助けもかりねばならぬ。非常の場合には、
非常の措置もやむを得ないのである。
戦後数年のわが国は、この火事以上の非常事態であった。だから非常の
なかの非常の振舞方や考えが、次々とあらわれてきた。
やむを得なかったともいえよう。
しかし、これはあくまでも非常のなかでのことである。火事がおさま
れば、やはり他人の足をふむことはゆるされぬ。人の助けをかりる
ことを、当然と考えるわけにもゆかない。正常にかえれば、正常の
心がやはり求められるのである。
わが国の人心は、現在、はたして正常にかえったかどうか。生活は正常に
かえったのに、〝非常〟に甘えた振舞や考え方が、なお根強く残って
いはしないか。
正常心にかえるためには大きな勇気がいる。勇気をもって反省して
みたい。ふりかえってみたい。そこに人としての道のはじまりがある
といえよう。
この続きは、次回に。