新装版 こころの朝 ④
8 「そなたは、人間に生まれたことを、どのように思っているか」釈迦の問いに、何と答えるか
「盲亀浮木の譬え」が示す命の重さ
今日、「盲亀浮木の譬え-もうきふぼくのたとえ」といわれている話である。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その盲亀が、百年に1度、海面に顔を出すのだ。
広い海には、一本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒は、風のままに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿南よ。百年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか」
阿南は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」。
「絶対にないと言い切れるか」
「何億年掛ける何億年、何兆年掛ける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
「ところが阿南よ、私たち人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」と、釈迦は教えている。
「有り難い」とは「有ることが難しい」ということで、めったにないことをいうのである。
人間に生まれることは、それほど喜ばねばならないことだと知らされれば、自殺も、殺人も、戦争もなくなるはずである。
9 人をバカにしたら、そのしっぺ返しは、何倍にもなって襲ってくる
一杯のスープが国を滅ぼす
「どんな小さなことであっても、相手の心を傷つけると、深い恨みをかうものだ。私は、たった一杯のスープのせいで国を滅ぼしてしまった。
人が困っている時には、常に、親切を心がけねばならない。私は、小さな壷に入るような、わずかな食物を施したおかげで、二人の勇士を得た」
人をバカにしたら、どんな小さなことであっても、そのしっぺ返しは、何倍にもなって襲ってくることを覚悟しなければならない。
10 「この衣を返したら、舞を見せずに、天に昇ってしまうつもりだろう」
「いいえ、うそ偽りは、人間界にしかないのですよ」
世阿弥の『羽衣』
能『羽衣』は、室町時代の世阿弥の作である。
白竜は、他人の物を奪おうとし、さんざん天女を悲しませているのに、自分の姿が見えていない。そのうえ、うそをつくのではないかと他人の指摘までしている。
そんな自分を非難することなく、「うそ偽りは、人間界にしかないのでよ」と優しく語りかける天女。白竜は、その言葉に、我が身の醜い姿が照らし出されて、「恥ずかしい」と叫ばずにはおれなかったのである。
天女が言うように、人間界には、うそ偽りが、あふれている。
しかし、「それが、どうした」「みんなやっている」という心が出てくる。
白竜が抱いた「恥ずかしさ」さえも感じなくなっているとすれば、すでに悪に染まり、悪に鈍感になっているのかもしれない。
「人間とは」「罪悪とは」を見つめる、深いテーマが、この『羽衣』に込められているようだ。
11 「苦しみよ、来るなら来い。どこまで耐えられる、試してやろうじゃないか」
山中鹿介の誓い
苦しみがやってくると、逃げたい、避けたい、と思うのが普通である。
ところがまったく反対に、「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と誓って、困難に挑戦した男がいた。
出雲(現在の島根県東部)の山中鹿介である。
武士にとって「逃げた」と言われるのは恥じである。しかし、死んでしまったら、何もできない。命があれば、目的へ向かって、再度、挑戦できるのではないか。たとえ可能性は少なくても、一歩でも前進したい。そのために、どんな非難を受けようが本望だ。
世間体を気にして切腹するより、よほど厳しい道である
以後、七年間、各地を流浪しながら再起のチャンスをうかがう。
城も領地もない、一人の武将であったが、その不屈の精神は広く知られるようになったのである。三十四歳で暗殺されるまで、可能性を捨てず、前向きに挑戦し続けた一生であった。
この続きは、次回に。