新装版 こころの朝 東洋の寓話②
3 人生は「ひとりぼっち」の旅である
どれだけ大勢の人に囲まれていても寂しいのは、自分の心を分かってくれる人がないから
なぜ、人生は寂しいのか。その理由を、釈迦は、
「独生独死(独り生まれ、独り死し)
独去独来(独り去り、独り来る)」と説いている。
私たちは、この世に、独りで生まれてきたのだから、死んでいく時も独りである。
最初から最後まで、独りぼっちの旅なのだ。
これは、「肉体の連れはあっても、魂の連れがない」ことを表している。
どれだけ大勢の人に囲まれていても寂しいのは、自分の心を分かってくれる人がいないからである。親子、夫婦、親友であっても、心の中を、すべて洗いざらい言えるだろうか。
何一つ隠さずに、さらけ出すことができるだろうか。心の奥底を、よくよく見つめてみると、とても言葉に出せないものを、お互いに持っている。もし、言ってしまったら、「そんなことを思っていたのか」と、相手がびっくりし、嫌われてしまうだろう。「あの人には、何でも言える」というのは、言える程度までならば、何でも言えるということだ。
自分の悩みや苦しみを、すべて誰かに話すことができ、完全に分かってもらえたならば、どれほど救われるかもしれない。しかし、現実には不可能である。どんなに仲が良く、一緒に暮らしている相手であってでも、一人一人の本心は、別の人には、のぞき見ることもできない。自分にさえ知りえぬ、秘密の蔵のような心があると、仏教では説かれている。寂しくて、何かをせずにはおれないが、何をしても、紛らわすことができない。
まさに、底知れぬほど寂しいところが人生なのである。
知るとのみ 思いながらに 何よりも
知られぬものは 己なりけり
4 毎日、誰かが死んでいる
命の短さが、身にしみて感じられるようになるほど、人間は人間らしい生活を営むようになる
死の影に驚く人々を区別して、釈迦は、「四馬の譬喩」を説いている。
(1) 鞭影を見て驚く馬
(2) 鞭、毛に触れて驚く馬
(3) 鞭、肉に当たって驚く馬
(4) 鞭、骨にこたえて驚く馬
第一の「鞭影を見て驚く馬」とは、散っていく花や、火葬場から立ち昇る煙を眺めて、やがて我が身にも襲いかかってくるであろう死に驚く人をいう。
第二の「鞭、毛に触れて驚く馬」とは、葬式の行列や霊柩車を見て、我が身の一大事に驚く人。
第三の「鞭、肉に当たって驚く馬」とは、隣家や親戚の葬式や眼前の無常を見て驚く人。
第四の「鞭、骨にこたえて驚く馬」とは、肉親を失って自分の死に驚く人、を例えたものである。
ある時、釈迦が修行者たちに命の長さについて尋ねている。
修行者の一人は、「命の長さは五、六日間でございます」。
次の一人は、「命の長さは五、六日なんてありません。まあ、食事を致す間くらいのものでございます」。
次の一人は、「いやいや命の長さは一息つく間しかありません。吸った息が出なかったら、それでおしまいです」。
釈迦は、最後の答えを大いに賞賛し、
「そうだ、そなたの言うとおり、命の長さは吸った息が出るのを待たぬほどの長さでしかないのだ。命の短さがだんだんに身にしみて感じられるようになるほど、人間は人間らしい生活を営むようになるのだ」と教えている。
後の世と 聞けば遠きに 似たれども 知らずや今日も その日なるらん
5 自分も必ず死んでいく
欲、怒り、愚痴で、悪をつくり続ける人間は、
死んだら、どこへいくのか
藤蔓が切れると同時に、旅人は、底の知れない深海へ落ちていく。
これを、「後生の一大事」という。後生とは、一息切れた死後のことである。
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、吐いた息が吸えなければ、その時から後生である。次に、一大事とは、どんなことをいわれるのか。仏教に、こんな話が伝えられている。———————————————————————————。
このように、釈迦は、すべての人に、死ねば取り返しのつかない一大事のあることを教えている。これを後生の一大事といわれる。
底の知れない深海は地獄であり、三匹の恐ろしい竜は、欲、怒り、愚痴の煩悩を例えている。
釈迦は、これらの煩悩によって悪を作り続ける人間の実相を、
心常念悪——心常に悪を念じ
口常言悪——口常に悪を言い
身常行悪—–身常に悪を行じ
曽無一善—–曽て一善無し と、『大無量寿済—だいむりょうじゅきょう』に説き、
堕つる地獄は、自ら造り、自ら独り堕ちていく世界であることを、明らかにしている。
五滴の蜂蜜とは、人間の五欲を表している。
食べたい、飲みたいという食欲。
お金や財産を追い求める財欲。
男女の仲を満たそうとする色欲。
どんなひとからでも褒めてもらいたい名誉欲。
少しでも寝ておりたいという睡眠欲。
これらの、五つの欲には限りがない。
明日ありと 思う心の仇桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは
この続きは、次回に。