現代語訳「論語と算盤」㉘
□ 正しい立場に近づき、間違った立場から遠ざかる道
物事に対して、「こうするべきだ」「こうするべきでない」と是非の基準を
はっきり持っている者は、すぐにでも常識的な判断をくだすことができる。
でも、場合によっては、そう単純に割りきれないこともある。
例えば、誰が見ても正しい道理を押したてられて、言葉巧みに誘導されると、
知らず知らずのうちに、自分の日頃の主義主張とは正反対の方向に誘導され、
足を踏み入れてしまうような羽目になる。こんな場合、無意識のうちに
自分の本心を失くされてしまうわけだが、「意志の鍛錬」の重要な働き
なのだ。
こんな場面に陥ったなら、相手の言葉に対して、常識に照らし合わせながら
自問自答してみるとよい。こうすると、「相手の言葉に従うと、一時は
利益を得られるが、あとで不利益が起こってくる」「この事柄に対しては、
こうきっぱり処理すれば、目先は不利でも将来のためになる」といった
ことが、はっきりとわかってくるものである。
もし目の前の出来事に対して、このような心のなかの検討が加えられる
なら、自分の本心を思い出すことはとても簡単だろう。
その結果、正しいことを選び、間違ったことから遠ざかることができる。
わたしは以上のようなやり方こそ、「意思の鍛錬」だと思うのである。
しかし、一口に「意思の鍛錬」とはいっても、それには善悪の二種類が
ある。
たとえば、石川五右衛門のような人物は、悪い方の「意思の鍛錬」を積んで
きたため、悪事のためには並外れた意志が固かった男といってよいだろう。
もちろん「意思の鍛錬」において、悪い方の「意思の鍛錬」が人生に必要な
はずもないので、わたしもこの点は深く考えたわけではない。
しかし、常識的な判断をとり違えたままで「意思の鍛錬」をしていくと、
最悪、石川五右衛門のような人間を出してしまわないとも限らないのだ。
だからこそ、「意思の鍛錬」の目標は、常識に照らし合わせつつ実践して
いくことになる。こうして鍛錬した心で、物事に臨み、人に接するなら、
社会を生きていくうえで過ちを犯すこともなくなるだろう。
このように論じていくと、「意思の鍛錬」には常識が必要である、という
ことになってくる。常識の養成のしかたは、別のところで詳しく述べた
のでここでは省くが、やはりその根本になるのは、親や目上を大切にし、
良心的で、信頼されることだろう。特に、良心的であることと親を大切に
する気持ち、この二つから組み立てた意志を持って、何事も順序よく進展
させ、静かな気持ちでじっくり考えてから決断することだ。こうすれば、
「意思の鍛錬」にはスキがなくなっていく。
しかしながら、静かな気持ちでじっくり考えられるような局面だけに
「意志の鍛錬」が必要だとは限らない。予想外のことに遭う場合もあれば、
人と会ったときに、突然その場で挨拶の言葉を述べなければならないことも
珍しくない。そんなときは、じっくり考えている時間などないから、すぐに
その場でふさわしい答えを出さなければならない。
しかし、普段からこういった鍛錬をしてこなかったものには、その場で
機転を利かすというのがちょっとむずかしい。このため、どうしても不本意な
結果になってしまいがちだ。こういったことも普段からよく鍛錬しておけば、
ついにはそれが習い性となって、どんなことにも動じない気持ちを持つに
至るのであろう。
● 主義主張
人が判断の基準としている、自分の持説や考え、立場のこと。
自分が生活の信条としているような考え方や思想。
この続きは、次回に。