お問い合せ

現代語訳「論語と算盤」㊾

□ こんな誤解がある

 

もともと競争は、何事にも付きものだ。そのもっとも激しいものを挙げ

れば、競馬とかボートレースとかになるだろう。

他にも、朝起きるのにも競争があり、読書するにも競争があり、徳の高い

人が低い人から尊敬されるにも競争がある。しかし、こちらの方の競争は、

あまり激しいものはない。

一方で、競馬やボートレースとなると、命をかけても構わないというほど

熱狂的になる。自分の財産を増やすというのもこれと同じで、激しい競争の

気持ちを引き起こし、「あいつよりも、俺の方が財産を多く持ちたい」と

願うようになる。それが極端になると、道義の観念も忘れてしまい、

いわゆる「目的のために手段を選ばない」というようにもなる。

つまり同僚をだまし、他人を傷つけ、あるいは自分自身を腐らせてしまう。

昔の言葉に、「財産をつくれば、仁の徳から背いてしまう」とあるが、

結局そういうところからきた言葉なのだろう。

アリストテレスは、「すべての商売は罪悪なのだ」といったそうだが、

それはまだ文明の開けぬ時代のことであり、いかに大哲学者のことばだと

いっても、真面目に受け取るわけにはいかない。しかし孟子も、「財産を

つくれば、仁の徳から背いてしまう。人の徳を行えば、財産はできない」

といっているくらいだから、同じようによく味わうべきなのだろう。

思うに、このように正しい理屈を間違えるようになったのは、一般の習慣が

そうさせた結果といわなければならない。元和元年(1615)に大坂夏の陣で

豊臣家が滅ぶと、徳川家康が天下を統一し、武力を止めて使わない時代と

なった。

それ以来、政治の方針はまず孔子の教えから出るようになったようである。

それ以前の日本は、中国や西洋にもかなりの接触を図ったが、たまたま

イエズス会士が、日本に対して恐るべき企てを隠しているかのように見えた

ことがあった。また、キリスト教によって国自体を乗っ取ることを目的と

する、といった書面がオランダから来たりもした。このため、海外との

接触をまったく絶って、わずか長崎の一部分においてのみ貿易を許す一方で、

国内を武力で完全に守り、統治したのだ。そして、その武力によって国を

治めようとした人が守ろうとしたのが、孔子の教えだった。だから儒教の

教えにある、「自分を磨き、よき家庭をつくり、国を治め、天下を平和に

する」という段取りで統治していくというのが幕府の方針であった。

このため武士たる者は、

「仁」—-ものごとを健やかに育む

「義」—-みんなのためを考える

「孝」—親に尽くす

「弟」—目上に尽くす

「忠」—良心的である

「信」—信頼を得る

といった道徳の王道を身につけていった。さらには、「社会正義のための

道徳を掲げて人を治める者は、経済活動などに関係しない」という教え

—言葉を換えれば、

「財産を作れば、仁の徳から背いてしまう。仁の徳を行えば、財産は

できない」という孟子の言葉を武士たちは現実に実行していったのだ。

しかも武士たちは、人を治める側はあくまで消費者であり、生産には従事

しないと、人を治め、教え導く者が経済活動を行うのは、その本来の役割に

反することだと考えた。「武士は食わぬど高楊枝」という風潮はここを

土台に続いていったのだ。さらに、「人を治める者は人々から奪われる

存在」と武士たちは信じ、ここから、「人に食べさせてもらうからには、

その人のために命を投げ出す」「人の楽しみをみずからの楽しみにする者は、

人の憂いをみずからの憂いにする」といった行動が、彼らの果たすべき

義務だと考えてもいた。結局、経済活動は、社会正義のための道徳と

無関係な人が携わるとされたため、まるで「すべての商業は罪悪だ」と

いわれた大昔と同じような状態が続いてしまったのだ。

これが三百年にわたる風潮を作り出していった。

しかも、武士も商人も、最初は単純な本質だけ守っていればよかったの

だが、次第に知識はすり減り、気力も衰え、形式のみ繁雑になっていった。

この結果、武士の精神が廃されてしまい、商人も卑屈になって、うそが

横行する世の中となってしまったのだ。

 

● 道義

 

人のふみ行うべき正しい道。道理。「道義にもとる行為」「道義的責任」

 

● 元和元年(1615)

 

実際に豊臣家が亡んだのは慶長二十年。

後水尾天皇によって同年、改元された。

 

● イエズス会士

 

イグナティウス・ロヨヲが1534年に創立した修道会の司祭。

積極的な海外布教で知られる。

 

 

 

この続きは、次回に。

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