お問い合せ

現代語訳「論語と算盤」「渋沢栄一小伝」④

□ 日本資本主義の父

 

栄一が大蔵省で手掛けた仕事は、大蔵省の機構改革から始まって、全国

測量、度量衡の改正、租税制度の改正、貨幣制度改革、藩礼の処理、

「立会略則(会社の起業規則)」の制定と、多岐にわたっていた。

持ち前の事務能力の高さと、壮年期の充実した体力を活かして、栄一は

目覚ましい仕事ぶりを発揮していった。

しかし彼は次第に、大蔵省での境遇に不満を募らせていく。

まず、実務のうえでネックとなったのが、大久保利通との対立だった。

当時の政府を取り仕切っていた利通は、今は新しい国づくりをしている

時期なので、当然出費は増えざるを得ないという立場をとっていた。

財政のバランスは後で取れば良いと考えていたのだ。

一方、栄一や彼の上司だった井上馨は、財政を任された立場である以上、

財政規律を欠いた支出には賛同できず、真っ向からぶつかっていたのだ。

また、陽性の栄一と陰性の利通とでは、性格の面でもソリが合わなかった

ようだ。さらに、政府における藩閥体制の問題もあった。

旧弊な徳川封建体制を打破したはずの明治政府も、薩長などの出身者が

重用されて、とても風通しがよいとはいえない面があった。

特に旧幕臣であった栄一にとって、これは大きなネックになっていた。

一八七三年、父の死や上司である井上馨の辞職を契機に、彼は大蔵省を

辞めて実業界へ踏み出す決心をする。七五年には第一国立銀行の頭取と

なって、以後の活躍の礎を築いていった。このときの経緯は、二十頁

(『論語』はすべての人に共通する実用的な教訓)にも記されている通りだ。

彼が長らく拠点とした第一国立銀行の理念が、その「株主布告」のなかに

端的に描かれている。息子の渋沢秀雄による素晴らしい口語訳があるので、

それをご紹介したい。

「そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つ事は限りがない。

しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝にたまっている水や、

ぼたぼた垂れているシズクと変りがない。時には豪商豪農の倉の中に

かくれていたり、日雇い人夫やお婆さんの懐にひそんでいたりする。

それでは人の役に立ち、国を富ませる働きは現さない。水に流れる力が

あっても、土手や岡にさまたげられていては、少しも進む事は出来ない。

ところが銀行を立てて上手にその流れ道を開くと、倉や懐にあった金が

よりあつまり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁盛するし、

産物もふえるし、工業も発達するし、道路も改良されるし、全ての国の

状態が生れ変わったようになる」

この第一国立銀行を足がかりに、日本の未来に必要な個々の企業自体も、

栄一は自らが中心となって順次設立していった。

彼が関わった会社は、抄紙会社(のちの王子製紙)、東京海上保険会社(後の

東京海上火災)、日本郵便、東京電灯会社(のちの東京電力)、日本瓦斯会社

(後の東京ガス)、帝国ホテル、札幌麦酒会社(のちのサッポロビール)、

日本鉄道会社(のちのJR)など、その数何と約四百八十社。

さらに東京商法会議所(のちの日本商工会議所)や、東京株式取引所(のちの

東京証券取引所)設立にも中心的な役割を果たし、まさしく「日本資本

主義の父」「実業界の父」と呼ばれるにふさわしい活躍を続けていった。

そして、そんな実業人として活動のなかで、大きなトピックとなったのが

三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎との尾形船会合事件に外ならない。

一八七八年、岩崎弥太郎から栄一は向島の料亭に招待された。

そこで弥太郎が切り出してきたのは、一言でいえば強者連合の誘いだった

のだ。この時の様子を、やはり秀雄が次のように描いている。

 

「君と僕が堅く手を握り合って事業を経営すれば、日本の実業界を思う

通りに動かすことが出来る。これから二人で大いにやろうではないか。」

 

岩崎の話をだんだん聞いて見ると、結局、彼と栄一で大きな富を独占

しようという結論になる。栄一の考え方とは正反対だ。

栄一は自分一人が金もうけをする気は毛頭ない。

いろいろな事業をおこして、大勢の人が利益を受けると同時に、国全体を

富ましてゆきたい念願なのである。

栄一は合本法(株式組織)の同義的運営によって、富は分散さるべきものだ。

独占すべきものではないと主張する。

いきおい二人の議論ははげしく対立した。

「だめだ。君のいう合本法は船頭多くして船山にのぼるの類だ。」

「いや、独占事業は欲に目のくらんだ利己主義だ。」

栄一は腹を立てて、その席にいた馴染みの芸者といっしょに姿を消した。

 

『論語と算盤』の本文でも繰り返し出てきたように、栄一は、あくまで

国を富ませ、人々を幸せにする目的で、事業育成を行っていた。

業界を育てるという観点から、ライバル関係にある会社の役員をともに

務めて批判を受けたこともあったが、彼は自分の大義に照らしてひるむ

ことがなかった。後に彼は、「わたしがもし一身一家の富を積もうと

考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。

これは負け惜しみではないぞ」と語っていたというが、確かに三菱(岩崎家)、

三井(三井家)、住友(住友家)のような財閥を作らなかった事実が、栄一の

氷心を見事にあらわしてもいる。もし栄一が欲得に目がくらみ、岩崎弥太郎と

結託する選択をしていたなら、後の日本の資本主義は、おそらく今とは

形が違うものになっていた可能性が高い。栄一の揺るがぬ信念があった

からこそ、現代のわれわれはその果実の恩恵に浴し、世界有数の経済大国の

地位を享受している面があるわけだ。

 

● 度量衡(どりょうこう)

 

長さ、面積、体積および質量の単位、標準、ならびにこれらの計量器に

ついて定められた慣習や制度をいう。かつては英語でweights and

measuresにあたるとされていたが、最近では、英語のmetrologyに相当する。

国際計量用語集(VIM)ではmetrologyは「測定の科学とその科学の応用」と

広い意味に定義されている。[小泉袈裟勝・今井秀孝]

 

● 旧弊(きゅうへい)

 

1. 古い習慣・制度などの弊害。「旧弊を改める」

2. 古い習慣や考え方にとらわれること。また、そのような言動やさま。

   「旧弊な人」「小母さんの―が始まった」〈花袋蒲団

 

● 抄紙(しょうし)

 

紙をすくこと。かみすき。

 

● 大義

 

1. 人として守るべき道義。国家・君主への忠義、親への孝行など。

   「大義に殉じる」

2. 重要な意義。大切な事柄。「自由平等の大義を説く」

 

● 一片氷心(いっぺんひょうしん)



俗塵ぞくじんに染まらず清く澄みきった、また心境のこと。

名利を求めず、汚れなく清らかな品行のたとえ。

ひとかけらののように清く澄んだの意から。

▽「「冰」とも書く。

 

● 欲得

 

貪欲と利得。ほしがって手に入れようとすること。また、その心。

「欲得で言っているのではない」

 

● 結託

 

互いに心を通じて事を行うこと。示し合わせてぐるになること。

「業者と結託して私腹をこやす」

 

 

この続きは、次回に。

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