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危機の時代 ジム・ロジャーズ ㉕

・ロシアの農民がトランプに感謝する理由

 

それでも毎日、ロシアの農民は目を覚すたびに、「ありがとう、トランプさん」と

喜んでいるだろう。ロシアの農業は制裁のために、かえって活況を呈している。

 

ロシアは輸入に頼らず、自国で農作物を生産しなければならなくなった。

このためプーチン大統領は農業を振興し、小麦、大麦、トウモロコシを

大幅に増産。今では穀物の輸出国として台頭している。

ロシアは2018年6月までの1年間に世界1位の小麦輸出国になった。

かつてロシアは世界最大の穀物輸入国だったのが、様変わりしている。

 

ロシアの農民はトランプに感謝していることだろう。

彼らはみな米国などの経済制裁のために、金持ちになっているからだ。

 

ロシアは資産が多く、借金が少なく、賢い人々がいる。

そして中国と良好な関係を築き、今やモスクワの中心部である赤の広場には、

観光のために訪れるたくさんの中国人が長い列を作っている。

ロシアでは中国語がブームになっており、話者も増えている。

ロシアと中国は手を携え、親しい友人になっており、一緒に多くのビジネスを

している。それは米国にとって良いことではないだろう。

ロシアと中国はどちらも事実上の一党独裁の国家だ。

ロシア人は自分たちの国が民主主義であると主張するが実態はそうではない。

私たちは現実を正しく見る必要がある。

 

ロシアは借金が少なく、エネルギーが豊富なだけでなく、物価が安い。

私は投資をするうえで、ロシアの魅力は増していると考えている。

人々はロシアを嫌うが、私はこのような変化を評価している。

 

資本主義には問題があるが、共産主義ほど生活が悪くないなら、人々が

どちらを選ぶかははっきりしている。

つまり経済が成功しているかどうかが大事なのだ。

経済的に完全に失敗した多くの民主主義の国がある。

ギリシャは民主主義だが、経済が破綻した。

つまり民主主義だからといって、経済が成功するわけではない。

歴史は常に変化している。過去を振り返ると、資本主義が支配的では

なかった長い期間があった。

宗教が支配的な時代も、軍隊が支配的な時代もあった。

日本でも軍部が政治を支配した時代があった。

長期間にわたり鎖国し、外の世界に対してほぼ完全に閉じていた時代もあった。

海外に対して門戸を閉ざす国の末路は悲惨だ。

 

1962年、アジアで最も豊かな国の1つはビルマ(現在のミャンマー)だった。

この年、ビルマではネ・ウィン将軍がクーデターを起こし、社会主義を

掲げて、外国人を追い出した。50年後、ミャンマーはアジアで最も貧しい

国になった。外国人を追い出したからだ。

それは民主主義の欠如とは何の関係もない。

国を閉ざして、外資を受け入れなかったことが理由と言える。

賢くない独裁者が国を支配したことが問題だった。

 

1957年に英連邦から独立した時点で、ガーナはアフリカで最も裕福な国の

一つだった。後に初代大統領となったクワメ・エンクルマは、外国人を

追い出した。国内経済への外国資本の介入を防ぐために、外国企業のガーナへの

直接投資を禁止。経済発展のために必要な民間資本を海外から導入することが

不可能になった。10年後、ガーナは破産した。

国が海外に対して門戸を閉ざして衰退した事例は、歴史の中で数多く目に

することができる。

 

・アフリカで中国の影響力が増す必然

 

アフリカも変化を続けている地域だ。

もちろん50カ国以上あるので、アフリカをひとくくりにして語るのは難しい。

今、中国はアフリカで影響力を増している。

毎年、中国は、アフリカ諸国の首脳を集めた会議を開催している。

多くのアフリカ諸国の指導者たちはこの会議に参加するために北京に集まる。

そして、多くの中国の指導者たちはアフリカ諸国を訪問する。

中国はアフリカで様々な経済プロジェクトを進めている。

かつてアフリカの多くの国々を植民地化してきたフランスや英国の存在感は、

今では非常に小さい。

今はどこでも中国人だらけだ。アフリカには膨大な量の天然資源があり、

それを誰もが必要としているが、特に中国が虎視眈々と狙っている。

 

中国はアフリカで鉄道を建設しており、港も建設している。

しかしながら米国はアフリカに鉄道を建設しておらず、英国もインフラを

整備していない。

英国がアフリカに鉄道を建設したのは、100年以上前のことだ。

 

そもそもアフリカの国境線は奇妙な形で誕生した。

1884年にドイツのベルリンで会議が開催され、14のヨーロッパの主要国が

参加した。英国、フランス、ドイツ、ベルギーなどが集まり、アフリカの

地図を見ながら、「みんなで分割しよう。私はこの国にする。あなたは

この国をとっていい」と言って、アフリカを分け合った。

ここの境界線をつくろう。これはスーダン、あれはアンゴラ、それはコンゴと

いった風だった。

彼らは自分たちが何をしているのか理解していなかった。

アフリカに住んでいるさまざまな部族や言語の違いなど何も気にして

いなかった。

当時、アフリカに住んでいた人たちは、自分たちの運命が、はるか彼方の

ベルリンに集まっている白人たちの手に握られていたとは、夢にも思わな

かったことだろう。

 

 

この続きは、次回に。

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