ビッグボーイの生涯 五島 昇 ①
私は若い時—30歳代の時に城山三郎の書籍をほとんど読みました。
それほど、城山三郎という小説家の書く小説が好きでした。
今回は、1993年5月20日第1刷発行の
「ビッグボーイの生涯 五島 昇その人」を読んで心に残った言葉等をお伝えしたいと思います。
随分前に購入したのですが、書籍を整理している中で出てきました。
初めに、「五島 昇」「城山 三郎」のプロフィールをご紹介致します。
少しでも参考になれば、幸いです。
株式会社シニアイノベーション
インターネツトより抜粋—
五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 – 1989年(平成元年)3月20日)は、日本の実業家。
東京急行電鉄社長・会長。日本商工会議所会頭。五島慶太の長男。
来歴・人物[編集]
学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学経済学部を卒業し、東京芝浦電気に入社。
学生時代は野球部に籍を置き捕手としてならしたが中途退部の後ゴルフ部へ転向。
1945年(昭和20年)東京急行電鉄に入社。
1948年(昭和23年)に新発足した東急横浜製作所(現・総合車両製作所)、京浜急行電鉄の
取締役となり、1954年(昭和29年)、東急社長に就任。
その他、死去するまで、グループ各社の会長もしくは相談役、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)、
小田急電鉄の取締役の他、松竹、歌舞伎座の取締役相談役なども歴任した。
父の慶太が強引な企業買収により事業拡大を目指したのに対し、昇は反対の事業展開を目指す。
慶太死去の際、東急は東洋精糖を買収工作中で、激しい企業間紛争となっていたが、昇はすぐさま
撤退に着手し慶太死去のわずか27日後に完全撤退した。
さらに傘下の自動車メーカー東急くろがね工業(旧・日本内燃機製造、現・日産工機)を清算、
東映の分離など、拡大した東急グループを再編し、本業である鉄道業・運輸業と関連性の高い
事業に「選択と集中」を行った。
一方で、グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空(後の
日本エアシステム、現・日本航空))やホテル事業、リゾート開発等の拡大を図り、最盛期には
グループ会社400社、8万人の従業員を数えた。
しかし、伊豆急行の建設と田園都市線の延伸といった鉄道敷設、ならびにその沿線の宅地開発に
関しては、父慶太が立案した通りに忠実にやり遂げた。
また、ファッションに敏感であり109の出店や田園都市線たまプラーザ駅の命名を行った。
当時内閣総理大臣であった友人の中曽根康弘に乞われて1984年(昭和59年)からは日本商工会議所
会頭の要職も務め、1987年(昭和62年)に会長に退いた。
このことが激務となり、体調を崩す一因となった。
この辺の経緯は『ビッグボーイの生涯 – 五島昇その人』(城山三郎著・講談社文庫)に詳しい。
自らを振り返る文献をほとんど残さなかった。
1989年3月より、日本経済新聞において『私の履歴書』で事実上の自伝を執筆するが、連載中の
3月20日に72歳にて死去(以後は遺稿扱い)。
戒名は『昇徳院殿英譽道淨生洪勲大居士』。
城山 三郎(しろやま さぶろう、1927年(昭和2年)8月18日 – 2007年(平成19年)3月22日)は、
経済小説の開拓者であり、伝記小説、歴史小説も多く著している。
生涯[編集]
愛知県名古屋市中区生まれ。名古屋市立名古屋商業学校(現:名古屋市立名古屋商業高等学校)を経て
1945年(昭和20年)、愛知県立工業専門学校(現:名古屋工業大学)に入学。
理工系学生であったため徴兵猶予になるも大日本帝国海軍に志願入隊。
海軍特別幹部練習生として特攻隊である伏龍部隊に配属になり訓練中に終戦を迎えた。
1946年(昭和21年)、東京産業大学(現:一橋大学)予科入学、1952年(昭和27年)、改名された
一橋大学(山田雄三ゼミナール)を卒業。
卒業論文は「ケインズ革命の一考察」。大学在学中に洗礼を受ける。
父が病気になったため帰郷し、岡崎市にあった愛知学芸大学(現:愛知教育大学)商業科文部
教官助手に就任。担当は景気論と経済原論。後に同大学文部教官専任講師。
この間金城学院大学にも出講。1954年(昭和29年)、丸山薫の紹介で、永田正男、宇佐美道雄、
国司通、岩崎宗治と月一回の読書会「クレトス」を始める。
名古屋の「近代批評」の同人に加わる。1955年(昭和30年)、一橋大学経済研究所に出張。
1957年(昭和32年)3月、名古屋市千種区の城山八幡宮(末森城址)付近に転居、同12月神奈川県茅ヶ崎に
転居。1963年(昭和38年)6月、日本作家代表団(団長・木下順二)参加による訪中を機に
愛知学芸大を退職し、以後、作家業に専念する。
なお、ペンネームの“城山三郎”について、上記の城山八幡宮(城山町)に〈3月〉に引っ越して来た
ことから付けた、と本人は語っている。
晩年は治安維持法が悪用された経緯から佐高信らとともに個人情報保護法の成立に反対するなどの
活動をした。
2007年(平成19年)3月22日午前6時50分、間質性肺炎のため、茅ケ崎市内の病院で死去。79歳没。
お別れの会には、中曽根康弘、小泉純一郎、河野洋平、土井たか子、五木寛之らが出席した。
ダイヤモンド社主催の「ダイヤモンド経済小説大賞」が発展・改称する形で「城山三郎経済小説大賞」が
設けられたが、第4回(2012年(平成24年)12月発表)をもって終了。
2014(平成26年)、あらたに「城山三郎賞」(主催・角川文化振興財団)が創設された。
受賞歴[編集]
- 1957年(昭和32年):『輸出』で第4回文學界新人賞。
- 1959年(昭和34年)
- 1996年(平成8年):『もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界』で第44回菊池寛賞。
- 2002年(平成14年):朝日賞。
この続きは、次回に。