ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学 ㊸
日本の「事業のたたみやすさ」はどうか
では日本の「事業のたたみやすさ」はどうでしょうか。
最近は少し風向きも変わってきましたが、少し前までの日本は「起業の盛り上がりに欠ける」と
言われていました。実際、バーニー=山川氏らの論文に掲載されている経済協力開発機構(OECD)に
よると、日本の1990年から2008年までの開業率は0.04で、他の主要国(米国=0.10 、ドイツ=0.17、
シンガポール=0.18)よりもはるかに低い値となっています。
他方で、この論文では世界銀行などのデータを使って各国の「事業のたたみやすさ」も幾つかの
側面から定量化しています。そしてこの結果を見ると、日本の倒産法や手続きは、必ずしも全ての
側面で不利ではないようです。
例えば、倒産手続きにかかる時間は0.6年で、米国や韓国(どちらも1.5年)よりも短くなっています。
倒産の手続きコストも相対的に低くなっています。
さらにいえば、このテーマに関する研究はまだ端緒についたばかりですので、まだ結論を急ぐ階段には
ありません。例えば、南カリフォルニア大学のヨンウック・ペクが、「ジャーナル・オブ・エコノ
ミクス・マネジメント・アンド・ストラテジー」誌に2014年に発表した論文では、米国66万人の
データを使った統計分析の結果、2005年に米国の倒産法が改訂された後も、それが起業の活性化
には影響しなかったと結論づけています。
いずれにせよ、バーニーたちの問題提起もあり、このテーマが研究者の間で注目を浴びていることは
間違いありません。さらなる研究が望まれる分野といえるでしょう。
さて、ここまでの話を踏まえて、私のほうから問題提起をさせてください。
私は日本の起業社会を考える時に、これまで経営学で分析されてきた「事業のたたみやすさ」の
議論では不十分かもしれない、と考えています。
実際、先の論文によると、日本の倒産法や行政手続きは必ずしも多くの項目で他国に比べて不利とは
いえないにもかかわらず、開業率は低いのです。では追加で何を考えるべきかというと、もう一つの
たたみやすさ、すなわち「キャリアのたたみやすさ」なのではないでしょうか。
キャリアのたたみやすさ
みなさんもご存知のように、米国ではスタンフォード大学やハーバード大学などの有名大学でMBA
(経営学修士)などの学位を取ったいわゆるエリート層が盛んに起業するのでしょうか。
もちろん「彼らは優秀だから高度なビジネスアイデアを思いつく」など、そういうこともあるのかも
しれません。
しかし、それに加えて、彼らは「仮に事業が失敗しても次の転職に困らないから、リスクが取れる」
という側面も大きいのではないでしょうか。
起業に失敗した時には、もう一度新しいビジネスを起こすのも選択肢ですが、他方で既存企業に転職
する、という選択肢もあるはずです。
すなわち「起業家としてのキャリアを一旦たたむ」わけです。
米国が転職の盛んな社会であることには、みなさんも異論はないと思います。
さらに言えば、米国では起業経験そのものを既存企業の人事が高く評価してくれることもあります。
このような社会では、仮に自分が起業した会社を潰してしまっても、既存の企業に転職するという
選択肢が豊富にあります。
とくに名門校でMBAを取った人たちには、その経歴に加えて卒業生ネットワークなどもありますので、
転職オプションが充実しています。
すなわち、米国では法制度的に「事業がたたみやすい」だけでなく、起業家が「キャリアをたたみ
やすい」社会であるといえます。
リアル・オプション的にいえば、キャリアという側面からも、不確実性に対してオプション価値が
高いのです。
「起業に失敗しても食いぶちに困ることはない」という背景があるからこそ、彼らは大胆にリスクを
取って起業できるのではないでしょうか。
日本人の「キャリアのたたみやすさ」はどうか
翻って、日本はどうでしょうか。例えば私は日本で会社勤めをしていた十数年前、大企業にいた同世代の
友人や少し年上の方々が思い切って会社を辞めて起業するのを何度か見てきました。
その中にはそのまま成功されている方もいますが、他方で残念ながらうまくいかなかった方もいます。
そしてさらに残念なのは、そう言った方々の多くは自分が前にいた業界に戻りたがるのですが、
なかなか受け入れ先が見つからなかったことです。
いま、日本の雇用の流動化を含めて、日本人のこれからの仕事のあり方が議論されているようです。
私は労働経済学者ではないので立ち入って議論する力はありませんが、私見としては、労働市場が
流動化されて転職がもっとも自由になり、さらに起業にチャレンジした経験を人事担当者が評価できる
ような社会になれば、「キャリアのたたみやすさオプション」が充実し、それがさらに多くの方々を
起業という選択に促すのではないか、と考えています。
そして実はそういった土壌は、日本でも少しずつできつつあるのかもしれません。例えば最近は、
いくつかの大手企業でいわゆる「出戻り」を奨励する動きが出てきたようです。
それは、一度会社を辞めて起業した方の「キャリアのたたみやすさ」を促します。
リアル・オプション理論で言えば、それはまさに起業のオプション価値を高めることになります。
日本のベンチャー業界でも、その動きは顕著になってきています。
前述の『起業のファイナンス』(旧版)の中に磯崎氏は、たとえ事業に失敗しても起業を経験した
人たちが培ったセンスは、「形式にこだわらない企業では引く手あまた」(22ページ)だと述べて
います。
私自身も日本の企業関係の方々と交流する中で、同じようなことを感じています。
しかし、この流れは「ベンチャー業界」に限られたことで、既存の大中規模の企業にまでは十分に
広がっていません。
ぜひこの流れがさらに進んで、「起業をすることのオプション価値」が日本中でもっと高まって
欲しいものだ、と私は考えています。
この続きは、次回に。