人を動かす経営 松下幸之助 ⑫
第二章 説得の経営
・ 説得泣き説得—将軍家光と阿部豊後守
人間というものは一面感情の動物であるから、カッとしたような時には正しい判断ができにくい。
ついつい、その場の一時的な感情にしたがって判断し、物事を決めてしまう場合がある。
それで事がすむのであれば、また、だれにも迷惑がかからないのであれば、それでもよいかもしれない。
けれども、そういう一時的な判断による結果が重大な場合には、これはちょっと困る。
とくに、責任者とか指導的な立場にある人、経営者などがそういう姿に陥ったとしたならば、これは
問題である。
どうすればよいか。
※ 省略致しますので、購読にてお願い致します。
これは、念を入れた、慎重な態度についての例にもなるかもしれない。が、また見方によれば、
豊後守が将軍家光に対して一つの説得を行ったものと見ることもできるのではなかろうか。
もちろん豊後守は家光に対して、何か説得めいたことを言ったわけではない。
「お湯をかけられてヤケドをしたのは、たしかに熱くて痛くて苦しいでしょうが、しかし係の者を
死刑にするほどでもないのではありませんか」などとは言っていない。
たとえそんなことを言ったとしても、感情の高ぶっている家光には通じない。
豊後守自身も叱られるのがオチであろう。
豊後守は将軍家光が死刑にせよと命じたこと自体は、「かしこまりました」とそのまま受けている。
しかし、それはそれとして、実行には移さない。
感情的になっている時は、将軍でも、正しい判断、適切な判断を下すことのできない場合が多い。
しかし、それが適切でなくても、適切でないと指摘して改めさせようなどとすれば、なおさら感情を
高ぶらせてしまう。
それでは説得にならない。
だから、〝人を見て法を説け〟ということばもあるが、その〝人〟とは、人物とか人柄とかといった
ことと合わせて、その人の気持ちの状態、心の状態も含める必要があると思う。
そういうものを正しく見つめて、適切な状態において説得することが大切なわけである。
しかも、豊後守の場合は、説得それ自体をしていない。いわば説得なき説得である。
もう一度聞きなおす、ということをしただけである。そうすれば、この例のように、場合によっては
それだけで、効果的な説得をしたと同じことにもなるわけである。
われわれは、つね日ごろ、説得といえばことばを費やして行うものと考えがちであるが、必ずしも
そうではない場合もあるわけである。ことばは費やさなくても、また説得ということをことさらに
行わなくても、こちらの思うこと、意図することが相手に伝わる、そういう説得というものがある。
これは、実際にはなかなかむずかしいことかもしれないが、改めて一度お互いに考えてみたいような
気もするのである。
この続きは、次回に。