人を動かす経営 松下幸之助 ㉑
・ 臨機応変に対処する—謙信と毘沙門天
お互い人間は、規則とか決まりというものをよくつくる。
作って、それをお互いに守りあおうとする。
これは大切なことで、お互いが決まりを守ってこそよき秩序が保てるのである。
そして秩序が保たれていてこそ、お互いがそれぞれの活動をスムーズに進めることができる。
だから、そこによりよき成果が上がって、みんなの生活が向上することにつながる。
みんなのための規則であり、決まりなのである。
それはそれでいいけれども、しかし、その決まりや規則を守ることのみにとらわれてしまうと、これは
果たして好ましいかどうか。その点を、ときにお互いにふり返ってみる必要はないだろうか。
※ 省略致しますので、購読にてお願い致します。
この話の場合、一つには、誓いや約束事をするときには毘沙門堂へ行ってする、という決まりというか
慣習のようなものに、あえてとらわれなかったことがまずおもしろい。
家来たちは、いわば長い間の習慣に慣れて、頭が固まりかけていたのであろう。
それで、それと異なった謙信の指示に対して、素早く対応できなかった。
これでは緊急時には間に合わない。やはり、ときと場合に応じて、決まったことにとらわれない
柔軟性というものが大切なのである。また、それができるのが人間なのである。
もう一つの点は、自分の信仰にもとらわれていない、という点である。
これについては、賛否両様の見方があろうから、軽々に断定することはできないが、しかし、自分が
信仰しているから毘沙門天が用いられているのであって、自分が信仰していなければ毘沙門天は用い
られていない、というような考え方はなかなかおもしろい。
ちょっとみると、いかにも不遜な態度のようにみえる。
毘沙門天は神である。その神に対して、こういう考え方をするとは、まことに不敬不遜である、という
見方もあろう。たしかに、一面においては、そういう見方もできると思う。しかし私は、これは謙信が
主座を保っていた、ということだと思う。人間として主座を保っていた。
人間が信仰するからこそ、神も用いられる。人間が主体である。
神が尊いのは、人間が信仰するから尊いのだ、ということを謙信は言ったのではないか。
そう考えてみると、不遜な態度というよりも、真の尊さを知った敬虔な態度だと言わなければならない
のかもしれない。いずれにしろ、臨機応変ということである。そして臨機応変が本当にできるためには、
やはり人間が主座を保っていなければならない、これはこうでなければならないというように、
しきたりや決まりにとらわれていては、臨機応変はむずかしいのである。
やはり、つねに人間が主座を保ち、主体性を保持していて、初めてそれが可能になる。
われわれの日常の仕事にしろ、会社の経営の上においても、また商売の上においても、そういう謙信の
態度は、大いに参考とすべきものがありはしないかと思うのだが、どうであろうか。
この続きは、次回に。