Coffee Blake-令和3年4月6日(火) 「周死期」
私は、「周死期」という言葉を知りませんでした。
2021.3.17 日経新聞「周死期 俳人 薫まどか」の記事を見て初めて
知ったのです。
周死期とは、死の前後の期間を包括的・ 連続的にとらえた概念です、と
インターネットで調べましたが、「周死期学」で検索のうえ、勉強する
ことに致しました。
宜しかったら、ご参考にして下さい。
2021.4.6
株式会社シニアイノベーション
代表取締役 齊藤 弘美
「周死期学」
—「 1 」—-
今からもう二十年以上も前のことです。
私の父は数ヶ月にわたる入院生活の末、満八十歳の誕生日を目前にして
亡くなりました。死の数日前に病床を見舞った時、私は父の様子がいつ
もと違うことに気づきました。父の視線が私を通り越して病室の天井の
彼方にじっと定まっているのです。そして明らかに誰かとやりとりして
いるそぶりに見えます。
父は静かに落ち着いており、どことなく生き生きとした表情さえ浮かべて
いました。
死を前にした父にいったい何が起こっていたのか、その日の記憶は私の
心の奥底に不可解なものとして残り続けました。
後に四十五歳にして宗門を離れ、死の臨床をめざして医学の道に転進した
きっかけの一つがここにあります。
仏教では生老病死の四苦を説きます。
生まれ出ること、老いること、病むこと、そして死んでいくことは、誰もが
経験する根源的な苦しみであるというのです。この四苦の中でも、とくに
死についてはほとんど何もわかっていません。
私たちはいったいどうやって死んでいくのでしょうか。
私たちが死ぬとき何が起こるのでしょうか。
死んだ後どうなるのでしょうか。
これらの問いは「科学的な根拠に基づく医療」の立場に立つ現代医学が
直接答えることのできる領域のものではありません。かといって宗教が
説く教えに心から納得し、死の恐怖や不安の念から解放されたという人も
あまり多くないようです。
こうした状況を踏まえ、私は「周死期学」を提唱するようになりました。
出産分娩の前後の時期を「周産期」というように、死の前後の時期を言い
表すものとして「周死期」という概念を新たに立て、臨床的な死のプロ
セスを明らかにすることをめざしています。
死は瞬間ではありません。何時何分という時間的な一点で生と死を区切る
のは社会の約束事にしかすぎません。長短の差はあれ、実際のところ死は
一連の経過の中で訪れます。つまり死ということを考えるならば、その
プロセスを問題にしなければなりません。
かつて米国の精神科医キュブラー・ロスは死にゆく人々にインタビュー
して、死の心理的過程を明らかにしました。
こんどはそこからさらに大きく歩を進め、「周死期学」では医学、心理学、
医療人類学などの方法論を用い、身体的・精神的・霊的な観点から死の
プロセスのチャートを描こうというのです。
そこで私が特に注目しているのが「デスベッド・ビジョン」と呼ばれる
現象です。冒頭で述べた私の父のケースに典型的に見られるように、
要するに、既に他界している親しい存在が死の床に姿を現し、スムーズな
旅立ちを助けると考えられるもので、私は「むかえびと」と呼んでいます。
この経験をした比較的多くの患者さんが平安な終末期を過ごしていることが
欧米のホスピス関係者の間で以前から広く知られています。
突発的に訪れる死の場合は別として、死にゆく人は死のあるていど手前
から、意識的あるいは無意識的に旅立ちの準備を始めるもののようです。
たとえば、死が近づくにつれ意識がこちらの世界とやがて移行していく
次なる世界との間を行ったり来たりするようになることがあります。
意識がこちら側の世界にあるときには、周囲で見守る人々と同じものを
知覚していますが、次なる世界のほうに意識がシフトしているときには
周囲の者が見えないものを見ています。デスベッド・ビジョンとはその
ような時に起きる現象ではないかと推察されます。
確かに人によって死の様相は異なりますが、それは経験のしかたの違いで
あって、死のプロセスじたいは基本的に一つではないかと私は考えています。
肉体の死が私たちの存在の終焉では決してないとわかっても、海図のない
大海原に船出することには不安が尽きません。もし死のプロセスについて
記したチャートがここにあれば、そして平安な旅立ちの仕組みについての
知識があれば、死の臨床はもっと安らぎと希望に満ちたものになるのでは
ないでしょうか。
(2013年10月12日、東京新聞・中日新聞に掲載)
—「 2 」—
医学生として初めて出産の場に立ち会ったとき、赤ちゃんがお母さんの
産道をくぐり抜け、元気に呱々の声をあげるのを見て何とも言えない生命の
神秘に感動を覚えました。それと同時に、ふと思ったことがあります。
すなわち、赤ちゃんが母胎から生まれ出るための巧妙な仕組みが備わって
いるように、人が死んでいくときにも平安な旅立ちを助ける絶妙な仕組みが
用意されているのではないかと。
この世に生まれ出る出産分娩のプロセスと、この世から去っていく死の
プロセスは、方向こそ正反対でありながら、そこに何か通底するものが
あることを感じ取ったのはおそらく私だけではないはずです。
先週述べた「周死期学」の提唱はこうした直観がもとになっています。
私は以前「枯れて死ぬ仕組み」をテーマにした本を書き、高僧の死を参考に
しながら死のプロセスについて考えてみたことがあります。
もちろん「枯れて死ぬ」と言えるような死はどちらかといえば少ないの
かもしれませんが、基本的な一つのモデルとして、死のプロセスや旅立ちの
仕組みについてのさまざまな示唆を与えてくれます。
昔から高僧は七日以前に死期を悟り、飲食を節して旅立ちの準備を行ない、
やがて大往生を遂げる人が多かったようです。つまり結果的に緩やかな
脱水と飢餓の状態に身体をもっていくことになるのですが、そうすることで
死の苦痛が少なくなることを生体の智慧として会得していたのでしょう。
確かに現代の緩和医療の現場でも終末期の患者さんには過剰な輸液を控える
ようになってきています。
予め死期を悟ることのできるのは長年厳しい修行を積んだ一部の高僧だけ
ではありません。実は人間は誰でもあるていど死期がわかっているのでは
ないでしょうか。その段階が近づくと、意識的・無意識的に旅立ちの準備と
思われる行動をとる患者さんがいらっしゃることに多くの医療者が気づいて
います。
死そのものはほんらい苦痛に満ちたものではないと思われます。
末期に呼吸状態が悪くなって低酸素の状態になると脳内にベータ・エン
ドルフィンという物質の分泌が促され、苦痛をしずめ多幸感をもたらすと
いうことが言われています。またいわゆる臨死体験の報告のほとんどが、
平安に満ちた死(あるいは近似死)の経験を語っていることからもその
ことがうかがえます。
死のプロセスとなるといわゆる「死後」も当然のこと含まれてきます。
これは経験的に語れず、また科学的に実証できないことから、なかなか
アプローチが難しいところですが、悠久壮大な死後の世界を明らかにする
必要は決してないことをまず銘記しなければなりません。
私たちは常に〈いま・ここ〉に生きています。そしてこの現実世界に両足を
踏みしめて立ち、一日一日をせいいっぱい生ききることが大切です。
したがって、はるか彼方の未来のことよりも、この〈いま・ここ〉から
多少手を伸ばして届くていどの先のことがわかっていればそれで十分です。
航海にたとえると、たどり着く先の大陸の描写を細々と聞かされるよりも、
むしろこれからどうやって船を漕ぎ出しどちらを目指せばよいかという
情報のほうが何層倍も実用的ではないでしょうか。
こうした意味で、たとえば臨死体験者の報告は検討に値するさまざまな
情報をもたらすものであり、私の言う「むかえびと」のようなデスベッド・
ビジョンの研究もたいへん示唆に富んだものとなることでしょう。
「周死期学」は経験としてのさまざまな事実の積み重ねです。
冷厳な科学的証明を駆使することも必要になるかもしれませんが、むしろ
私は死にゆく人々やご家族の声に謙虚に耳を傾け、その視線と愛する者の
思いを何よりも大切にしたいと考えています。したがってその方法論は
周死期のエスノグラフィーと言えるかもしれません。
身体的・精神的・霊的な観点から旅立ちの仕組みを明らかにし、臨床的な
死のプロセスのチャートを描こうという「周死期学」は僧医としての私の
ライフワークです。最初は私一人の小さな小さな思いにしか過ぎません
でしたが、長年地道に求め続けてやっと一つのプロジェクトとして各分野の
専門家たちと共に取り組むところにまで至りました。
霊性とは何か。そして私たちは本来どういう存在なのか。こういった成果を、
いずれ多くの皆様方と共に分かち合えることを心より願っています。
(2013年10月19日、東京新聞・中日新聞に掲載)
いかがでしたか?
難しいですね「周死期」とは ?。
いずれ、私も実際に体験するときが来ると思いますが ?。
2021.4.6
株式会社シニアイノベーション
代表取締役 齊藤 弘美