Coffee Blake-令和3年4月12日(月) 「二十四孝」③
● 姜詩
姜詩(きょうし)の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を
食べたいと言っていた。姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と
魚を与えてよく仕えた。するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の
水が湧き出て、毎朝その水の中に鯉がいた。
● 孟宗
孟宗(歌川国芳『二十四孝童子鑑』)
孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。
病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。
ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍がある
はずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。
すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。
孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、
たちまち病も癒えて天寿を全うした。
● 郭巨
郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が
産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を
分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも
足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。
夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。
ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には
従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を
少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。
「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。
郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に
孝行を尽くした。
● 董永
董永(とうえい)は幼い時に母と別れ、家は貧しく、いつも雇われ仕事の
小銭で日々暮らしていた。父も足が悪かったので、小さな車を作って父を
乗せ、田んぼのあぜまで連れて行き、農作業をしていた。父が亡くなると
葬式をしたいと思ったが、貧しいのでお金がない。そこで、身売りをして
その金で葬式をした。身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の美女が
いた。美女が言うには「私は董永の妻となるべく、絹を織って身請け主に
届け許されました」と。そして董永の妻となり、最後に「私は天の織姫
ですが、貴方の孝行な心に感じて天が私にお命じになりました」と言うと、
天に帰って行った。
● 舜
舜と象(歌川国芳『二十四孝童子鑑』)
舜(しゅん)は大変孝行な人であった。父の名前は瞽叟と言い頑固者で、
母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。
舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、
耕すのを助けた。その時の天子を堯と言った。堯は舜の孝行な心に感心し、
娘を娶らせ天子の座を舜に譲った。
● 漢文帝(劉恒)
漢文帝(歌川国芳『唐土二十四孝』)
漢の文帝は高祖の子である。名を恒(こう)と言った。母の薄太后に孝行を
尽くし、食事の際は自ら毒見をするほどであった。兄弟も沢山いたが、
文帝ほど仁義・孝行な皇子はいなかった。そのため、陳平・周勃などの
重臣が皇帝に推戴した。孝行とは誰もが知っているが、実際に行うことは
難しい。だが、高貴な身分で孝行を行ったことは神の如き志である。
● 山谷(黄庭堅)
黄庭堅(歌川国芳『唐土二十四孝』)
山谷(さんこく)黄庭堅(こうていけん)は、宋の詩人であり、現在でも
詩人の祖といわれている。使用人も多く、妻もいたが、自ら母の大小便の
便器を取り、汚れている時は素手で洗って母に返し、朝から夕方まで母に
仕えて怠けたことはなかった。
この続きは、次回に。