Coffee Blake-令和3年4月13日(火) 「二十四孝」④
● 庾黔婁
庾黔婁(ゆけんろう)は南斉の人で、孱陵(せんりょう)県の役人に
なっていたが、着任して10日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならなく
なった。父の病気かと思い、役人を辞めて家に帰ると、案の定大病を
患っていた。庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、甘く
苦ければ良かろうと言う。庾黔婁は簡単なことだと言って舐めてみると、
味が違ったので父の死を悟り、北斗七星(北極星)に身代わりになることを
祈り続けた。
● 朱壽昌
朱壽昌(しゅじゅしょう)は、7歳の時に父母が蒸発してしまったので
母をよく知らないことを嘆き、50年が経った。ある時、朱壽昌は役人で
あったが職も妻子も捨て、自らの血でお経を書いて天に祈っていると、
秦という所に母がいると告げられ、遂に母に会うことができた。
● 曾参
曾参と母(歌川国芳『二十四孝童子鑑』)
孔子の弟子の曾参(そうしん)は、ある時薪を取りに山に行った。
母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。母はもてなしたいと
思ったが、曾参は家におらず、元々家が貧しいのでもてなしもできず、
「曾参、急いで帰って来てくれ」と指を噛んで願った。曾参は山で薪を
拾っていたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事の
いきさつを話してくれた。
● 唐夫人
唐夫人(とうふじん)は、姑(夫の母)の長孫夫人に歯がないのでいつも
乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、その他様々なことで仕え、数年が経った。
ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには
「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしている
のが心残りである。私の子孫たちよ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず
将来繁栄するであろう」と言った。このように姑に孝行なのは過去現在
珍しいとして、皆褒め称えたと言う。
● 老莱子
老莱子(ろうらいし)は、両親に仕えた人である。老莱子が70歳になっても、
身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな
振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣く
ように泣いた。
□ 批判
福澤諭吉は『学問のすすめ』八編で以下のように『二十四孝』を批判して
いる。
古来和漢にて孝行を勧めたる話は甚(はなはだ)多く、廿(にじゆう)四孝を
始(はじめ)として、その外(ほか)の著述書も計(かぞ)うるに遑(いと
ま)あらず。然(しか)るにこの書を見れば、十に八、九は人間に出来難き
事を勧るか、又は愚にして笑うべき事を説くか、甚(はなはだ)しきは
理に背(そむ)きたる事を誉(ほ)めて孝行とするものあり。
寒中に裸体にて氷の上に臥(ふ)し、その解(とく)るを待たんとするも
人間に出来ざることなり。夏の夜に自分の身に酒を灌(そそぎ)て蚊に
喰(く)われ、親に近づく蚊を防ぐより、その酒の代を以て紙帳(しち
よう)を買うこそ智者ならずや。父母を養うべき働(はたらき)もなく、
途方に暮れて罪もなき子を生きながら穴に埋めんとするその心は、鬼とも
云(い)うべし蛇とも云うべし。天理人情を害するの極度と云うべし。
最前(さいぜん)は不孝に三ありとて、子を生まざるをさえ大不孝と云い
ながら、今こゝには既(すで)に生れたる子を穴に埋めて後を絶たんとせり。
何(いずれ)を以て孝行とするか、前後不都合なる妄説(もうせつ)なら
ずや。畢竟(ひつきよう)この孝行の説も、親子の名を糺(ただ)し、上下の
分を明(あきらか)にせんとして、無理に子を責るものならん。— 『學問ノスヽメ』(八編)
以上となります。
少しでも、ご参考になれば幸いです。
2012.4.13
株式会社シニアイノベーション
代表取締役 齊藤 弘美