田中角栄「上司の心得」⑩
● 「ひけらかさない」器量こそ“男の粋”。人が集まる。
周囲になるほどと得心させる「親分力」も、オレがやってやったと吹聴
するようでは帳消しになる。前項のように「ひけらかさない」のが男の
粋、真のダンディズムの二例を挙げてみたい。
人の集まるゆえんが、よく分かるのである。
田中には「金権」の〝代名詞〟が付いて回ったが、これは一面ではあったが
全面とは言い難かった。なぜなら、長く田中の秘書を務めた早坂茂三が
聞いて選挙資金援助などでの「田中とカネ」についての話は、その後の
多くの取材現場でも、実際に早坂秘書同様の証言を得たものだからである。
早坂は、こう言っていた。
「秘書となってすぐ、オヤジさん(田中)から『これだけは絶対に守れ』と
言われたことがあった。『カネを相手に渡す場合、くれてやるという姿勢は
間違っても見せるな。カネは、じつは受け取る側が一番つらい、切ないのだ。
そうした相手のメンツを重んじてやれなくて、どうする。むしろ、こちらが
土下座するくらいの気持ちで、もらって頂くということだ。
こうしたカネなら、初めて生きたカネになる』と。
だから、あとからこんな声が届くことが多い。『角さんからのカネは、
心の負担にならないからいいんだ』と。もとより、カネを渡したと口外
することも一切ない。これで、助かったほうは人に知られて恥ずかしい
思いをすることはない。常に、相手の気持ちを忖度する。
『人間学博士』と言われたオヤジさんの真髄だな」
こうしたまずの一例は、長らく中選挙区制時代の<新潟3区>でシノギを
削った、元社会党副委員長・三宅正一についてのそれがある。
若き日の三宅は、小作人の地主からの解放を目指した、戦後の農地改革の
主役を務めた「日農」(日本農民組合)を指導した人物である。そのうえで、
<新潟3区>から社会党代議士となった。一方の田中も、保守系の民主党から
代議士となり、新潟の豪雪苦、開発の遅れからの脱却に熱い血をたぎらせて
いた。やがて、両人は所属政党、立場は違うが、同じ郷土の「戦友」
「同志」としてどこか心を許し合い、互いに畏敬の念を持つようになって
いったのだった。
その三宅は、後年、衆院副議長までのぼり詰めたが、昭和55(1980)年6月の
衆参ダブル選挙で落選した。この失意の三宅に、田中が動いたのである。
田中の後援会「越山会」古参幹部の、次のような証言がある。
「三宅さんが落選した直後から、じつは田中はポケットマネーから、
月々20万円を送り続けていたんだ。議員年金はあるが、家の子郎党も
いるし、それだけでは厳しいだろうと、生活の心配までしていたという
ことだった。田中らしいのは、その〝渡し方〟だった。三宅に近い人が
受け取るようにしていたが、田中はその人にこうクギを刺していたと
聞いている。『ワシから出ていることは、絶対に本人に言ってはならん』と。
田中は恬淡として、それをやり続けていたのです。
その三宅は、昭和57(1982)年5月、逝去したが、本人はついぞそうした
事実は知らなかったとされている。
しかし、この手の話はいずれどこかで漏れるものである。案の定、やがて
社会党支持者の間にも知られるところになった。
三宅の死後から間もなく、田中はロッキード裁判一審で有罪判決(懲役4年・
追徴金5億円)を受け、昭和58(1983)年12月、さかのぼること7年前の
ロッキード事件逮捕直後の総選挙に優るとも劣らぬ、苦しい選挙に立ち
向かうことになった。しかし、田中はこの大苦境の選挙で、なんと22万票と
いう前代未聞の〝お化け票〟を獲得し、改めて底力を見せつけたのだった。
選挙結果が出た直後、前出「越山会」古参幹部は、次のように言っていた。
「この頃には、三宅さんへの田中の〝援助〟話が漏れ、社会党支持者の
言の葉にものぼるようになっていた。『田中は凄い男だ。参った』となった。
一方で、田中の地元に対する〝弱者救済〟の政治的目線が、社会党のそれと
大きく変わらないことはすでに知られており、結果、田中に社会党支持票が、
相当、流れたということだった」
情けは人のためならず。「報恩」が、ロッキード事件で苦境の田中を
救ったということでもある。
● 得心
心から承知すること。納得(なっとく)。
● 吹聴
言いふらすこと。言い広めること。「自慢話を吹聴して回る」
● ひけらかす
得意そうに見せる。見せびらかす。自慢する。「知識を―・す」
● 真髄
そのものの本質。その道の奥義。「芸道の―を究める
● 郎党(ろうどう)
1. 《「ろうとう」とも》身分的に主人に付き従う従僕。従者。
2. 中世、武家の家臣で、主家と血縁関係がない者。郎従。→家の子
● 恬淡(てんたん)
欲が無く、物事に執着しないこと。また、そのさま。
「名利に―な人」「無欲―」
この続きは、次回に。