ピーター・F・ドラッカー「経営者の条件」㊿+19
第二次世界大戦中、マーシャル将軍は、卓越していない指揮官は直ちに
解任することにしていた。指揮を執らせ続けることは、その指揮下にある
者に対する軍と国家の責任に反するとしていた。
彼は、「代わりがいない」などという理由には耳を貸さなかった。
「重要なことは、任務を果たす能力のないことが明らかだということで
ある。どこから代わりをもってくるかは別の問題だ」と言っていた。
しかしマーシャルは、人事の失敗は、その者ではなくその者を任命した
者の問題であるとしていた。「その仕事が合わなかったというだけである。
ほかの仕事にも合わないということではない。任命したのは私の間違いで
あって、次の仕事を見つけるのが私の責任だ」
マーシャルは、強みを生かすことに優れていた。彼が初めて人事を行う
地位についた一九三○年代の中頃、軍には第一線に立てる将軍は一人も
いなかった。マーシャル自身が後四か月で定年になるところだった。
六○歳の誕生日が一九三九年の一二月三一日で、参謀総長への就任が
四か月前の九月一日だった。
第二次世界大戦の将軍たちは、マーシャルが彼らの選抜に入った頃、
まだ先の見えない若手の将校だった。アイゼンハワーさえ少佐にすぎな
かった。しかし一九四二年には、マーシャルはアメリカ史上最多の将官を
手にしていた。不適格者は皆無、二流はごくわずかだった。
この軍事史上最高ともいうべき偉業は、マーシャルという、モンゴメリーや
ドゴールやマッカーサー流の自意識をすべて欠く人間によって成し遂げ
られた。彼がもっていたものは原則だった。
常に「この男は何ができるか」を問題にした。
何かができれば何ができないかは二義的とした。
例えばマーシャルは、何度もジョージ・パットンをかばった。
パットンという野心的で自信満々の有能な戦時用の将軍が、平時用の幕僚の
資質を欠くことによって不利をこうむらないようにした。
しかしマーシャル自身はパットンのような派手な軍人スタイルを嫌って
いた。
マーシャルは強みの発揮を制約する弱みだけを気にした。
しかしそのような弱みさえ、仕事と機会を与えることによって乗り越え
させようとした。
例えばマーシャルは、一九三○年代の中頃、アイゼンハワー中佐に戦略的な
思考を身につけさせるため戦略部門の仕事につかせた。
その結果アイゼンハワーが戦略家になれたわけではなかった。
しかし、戦略に対する敬意と理解力を身につけた。
こうしてチーム編成や戦術についての彼の強みに対する制約が取り除か
れた。
マーシャルは最も適した人間を任命した。地位の高い者が、「あの欠く
ことができない者は動かさないでくれ」といってくると、「仕事のため
であり、本人のためであり、軍のためである」と答えるだけだった。
マーシャルは一度だけ例外をつくった。ローズヴェルト大統領に欠く
ことができないと言われてワシントンにとどまった。
夢だったヨーロッパ生活をあきらめて、ヨーロッパにおける最高司令官の
地位をアイゼンハワーに譲った。
マーシャルは人事が賭けであることを知っていた。
しかし、何ができるかを中心に人事を行うことによって少なくとも合理的な
賭けにすることはできるとしていた。
● マーシャル将軍
ジョージ・キャトレット・マーシャル・ジュニア(英語: George Catlett
Marshall, Jr.、1880年12月31日 – 1959年10月16日)は、アメリカ合衆国の
政治家、軍人。最終階級は元帥。第二次世界大戦中の陸軍参謀総長として
アメリカを勝利に導き、戦後は国務長官、国防長官を歴任し、マーシャル・
プランによってヨーロッパ復興を指導した。ウェストポイント以外の
出身者として異例の出世をしている。
● 自意識
自分自身についての意識。周囲と区別された自分についての意識。
自己意識。「―が強い」
● 原則
多くの場合に共通に適用される基本的なきまり・法則。
「―を立てる」「―から外れる」「―として部外者の立ち入りを禁止する」
● 二義的
根本的でないさま。二次的。「―な問題とする」
● ジョージ・パットン
ジョージ・スミス・パットン・ジュニア(George Smith Patton Jr.、
1885年11月11日 – 1945年12月21日)は、アメリカの陸軍軍人。
モットーは「大胆不敵であれ!(Be audacious!)」
この続きは、次回に。