お問い合せ

P・F・ドラッカー「創造する経営者」㊿-77

○ 仮説や構想を事業に転換する

 

偉大なイノベーションは、理論上の仮説を現実の事業に転換することに

よって、これまで実現されてきた。

 

世の中に最大の影響をもたらした企業家的なイノベーションは、フランスの

社会哲学者サン=シモンのビジョンを投資銀行として具体化したことである。

彼は、セイの企業家の概念から出発して、資本の創造的役割を中心とする

システムを構想した。

その構想は、彼の弟子であるペレール兄弟が一九世紀半ばにパリに創立した

クレディ・モビリエにおいて現実のものとなった。

クレディ・モビリエは、資本に方向づけを行うことによって、産業を発展

させることを目的とした。

当時まだ産業の発展を見ていなかったヨーロッパ大陸、特にフランス、

オランダ、ベルギーの銀行の原型となった。

やがて、ドイツ、イタリア、スイス、オーストリア、スカンジナビア諸国に

おいて、それぞれの国の産業の担い手となる銀行が設立された。

南北戦争後のアメリカにも大西洋を渡ってやって来た。

産業発展に寄与したジェイ・クック、大陸横断鉄道の資金を賄ったアメリカン

・クレジット・モビリア、J・P・モルガンはすべてペレール兄弟の追随者

だった。近代日本の経済を築いた日本の財閥も同じだった。

しかし、ペレール兄弟の最も忠実な弟子はソ連である。

資本の配分による計画化という考えは、まさにペレール兄弟のものである。

ソ連が行ったことは、銀行家の代わりに国家をもってきたことだけだった。

そもそもマルクスにはそのような考えはなかった。特に経済の計画化の

考えはなかった。

今日、発展途上国で設立されている開発銀行のたぐいはすべてクレディ・

モビリエの後裔である。しかしそれでも、ペレール兄弟自身は一国の経済を

変えるために銀行をつくったのではなかった。

彼らは、利益をあげるために銀行という事業を始めた。

同じように、近代化学工業は、すでに存在していた構想を事業に発展

させることで生まれた。

 

近代化学工業は、本来はイギリスで育たなければならなかった。

一九世紀の半ば、イギリスには、化学製品にとって主要な市場となるべき

高度に発達した繊維産業があった。

しかも当時、イギリスは、科学の世界においてリーダーシップを握っていた。

事実、近代化学工業は、イギリス人による発見、すなわち一八五六年の

パーキンによるアニリン染料の発見から始まった。

しかし、パーキンによる発見の二○年後の一八七五年頃には、この新しい

産業のリーダーシップはドイツに握られていた。ドイツの企業家たちが、

イギリスにはなかった企業家的な構想、すなわち有機化学における科学的

探求の成果を、市場向けの応用に発展させるというビジョンをもって仕事を

したのだった。

 

企業を偉大な存在へと成長させるビジョンは、さらにはるかに簡単な

ものであることがある。

 

歴史上最も強力な民間企業は、第二次世界大戦後に解体される前、世界中で

一○○万人を雇用していた日本の三井家と思われる。

この数字は三井の解体を命じたGHQ当局による公式の推定である。

三井の起源は、一七世紀の半ばに当時の江戸で開店した世界最初の百貨店

だった。事業の基底にあった企業家的構想は、単なる仲介者としての商人

ではなく、経済活動における主役としての商人という考えだった。

このことは一方において、定価販売を意味した。他方において、職人や

生産者の代理人としての活動はしないということを意味した。

自らの責任において、自らの仕様に従った製品を仕入れることを意味した。

もともと貿易では商人が主役だった。日本の場合、一六五○年頃に海外

貿易は禁止されたが、三井はその海外貿易における商人像というビジョンを

使って国内の商業を築いた。

 

● 後裔(こうえい)

 

「末裔」「後裔」は、今も栄えている家柄などには使わない。

特に、「末裔」には、すでに滅びてしまった家柄の末の末と

いうようなニュアンスがある。

 

● 基底

 

ある物事の基礎となるもの。物事のおおもとのところ。根底。

「―をなす精神」

 

この続きは、次回に。

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