「道をひらく」松下幸之助 ㊳
○ 自信を失ったときに
・転んでも
「七転び八起き」ということわざがある。何度失敗しても、これに
屈せずふるい立つ姿をいったものである。
人生は長い。世の中はひろい。だから失敗もする。悲観もする。
そんなとき、このことわざはありがたい。
だが、七度転んでも八度目に起きればよい、などと呑気に考えるならば、
これはいささか愚である。
一度転んで気がつかなければ、七度転んでも同じこと。一度で気の
つく人間になりたい。
そのためには「転んでもまたただ起きぬ」心がまえが大切。
このことわざは、意地きたないことの代名詞のように使われているが、
先哲諸聖の中で、転んでそこに悟りをひらいた人は数多くある。
転んでもただ起きなかったのである。意地きたないのではない。
真剣だったのである。
失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたほうがいい。
真剣ならば、たとえ失敗しても、ただは起きぬだけの充分な心がまえが
できてくる。
おたがいに「転んでもただ起きぬ」よう真剣になりたいものである。
● 七転び八起き
何度、失敗しても、あきらめずに努力すること。失敗や敗北にくじけず、
何度も挑戦を繰り返すこと。「七転(ななころび)八起(やおき)」と使わ
れることが多い。「七」「八」は、回数の多いことをいう。
● 先哲諸聖
「先哲諸聖(せんてつしょせい)」とは、昔からの様々な哲人(知恵が
すぐれ、見識が高く、道理に通じた人物)や聖人(徳が高く、人格高潔で
他の模範となる人物)を意味します。
● 転んでもただ起きぬ
しくじっても何がしかの利益を得ようとするほど、要領がよく欲が
深くて機敏な人をいう。強欲な人間を嘲笑(ちょうしょう)する
ときに用いる。
・失敗か成功か
百の事を行なって、一つだけが成ったとしたら、これははたして失敗か
成功か。
多くの場合、事の成らない九十九に力を落とし、すべてを失敗なりと
して、悲観し意欲を失い、再びその事を試みなくなる。こうなれば、
まさに失敗である。
しかし、よく考えれば、百が百とも失敗したのではない。たとえ一つで
あっても、事が成っているのである。つまり成功しているのである。
一つでも成功したかぎりは、他の九十九にも成功の可能性があると
いうことではないか。
そう考えれば勇気がわく。希望が生まれる。そして、事の成った一つを
なおざりにしないで、それを貴重な足がかりとして、自信をもって再び
九十九にいどむことができる。
こうなれば、もはやすべてに成功したも同然。必ずやその思いは達成
されるであろう。
どちらに目を向けるか。一つに希望をもつか、九十九に失望するか。
失敗か成功かのわかれめが、こんなところにもある。繁栄への一つの
道しるべでもあろう。
この続きは、次回に。