「道をひらく」松下幸之助 ㊿+22
・わが身につながる
何でもかんでも、わるいことはすべて他人のせいにしてしまったら、
これほど気楽なことはないだろう。すべて責任は相手にあり、都合の
わるいことは知らぬ存ぜぬである。
だがしかし、みんながみんなこんな態度で、責任の押しつけ合いを
していたならば、この世の中、はたしてどうなることか。
理屈はどうにでもたてられる。責任をのがれる理屈は無数にあろう。
また法律上は、無関係、責任なしということもあり得ることである。
しかしこれは理屈や法律だけのこと。人と人とが相寄って暮らしている
この世の中、どんなことに対しても、自分は全く無関係、自分は全く
無責任—そんなことはあり得ない。一見何の関係もなさそうなこと
でも、まわりまわってわが身につながる。つながるかぎり、それぞれに
深い自己反省と強い責任感が生まれなければならないであろう。
すべてを他人のせいにしてしまいたいのは、人情の常ではあろうけれ
ども、それは実は勇気なき姿である。心弱き姿である。そんな人びと
ばかりの社会には、自他ともの真の繁栄も真の平和も生まれない。
おたがいに一人前の社会人として、責任を知る深い反省心と大きな
勇気を持ちたい。
・教えなければ
人間はえらいものである。たいしたものである。動物ではとてもでき
ないことをか考えだして、思想も生みだせば物もつくりだす。まさに
万物の王者である。
しかしそのえらい人間も、生まれおちたままに放っておいて、人間と
しての何の導きも与えなかったならば、やっぱり野獣に等しい暮らし
しかできないかもしれない。
古来、どんなにすぐれた賢者でも、その幼いころには、やはり父母や
先輩の教えを受け、導きを受けてきた。その上に立っての賢者であって、
これらの教え導きがなかったら、せっかくの賢者の素質も泥に埋もれ
たままであったろう。
教えずしては、何ものも生まれてはこないのである。教えるという
ことは、後輩に対する先輩の、人間としての大事なつとめなのである。
その大事なつとめを、おたがいに毅然とした態度で、人間としての
深い愛情と熱意をもって果たしているかどうか。
教えることに、もっと熱意を持ちたい。そして、教えられることに、
もっと謙虚でありたい。教えずしては、何ものも生まれてはこないので
ある。
この続きは、次回に。