お問い合せ

「道をひらく」松下幸之助 ㊿+24

・敬う心

 

学校の先生を軽んじ、師と仰ぐ気持ちがなかったら、先生も教える

張合いがないし、生徒も学びが身につかない。

社会にとっても大きな損失である。

やはり聖職の師として先生を敬い、謙虚に師事する姿から、一言一句が

身につき成長する。

親を大事にし、上司に敬意をはらう。先輩に礼をつくし、師匠に懸命に

仕える。親や師にたいするだけではない。よき仕事をする人を心から

尊敬し、一隅を照らす人にも頭を下げる。

天地自然、この世の中、敬う心があれば、敬うに値するものは無数に

ある。

犬や猫には敬う心の働きはない。だが人間には、ものみな、人みなの

なかに敬うべき価値を見いだす能力が与えられている。

本質として与えられている。その本質を生かしつつ、敬うべきものを

敬うことによって自他ともの心をゆたかにし、高めることのできるの

は人間だけではなかろうか。

その人間の特性を素直に生かしたい。敬う心を高めて、おたがいの

ゆたかさをはかりたい。

 

・身につまされる

 

一つのことを聞いても、一つのことを見ても、わが身につまされる

思いがあったなら、その見たり聞いたりしたことが、そくそくと

わが身にせまってきて、いろいろさまざまの感慨が生み出されて

くる。

身につまされてもらい泣きというけれど、つまりは人の世の喜びも

悲しみも、その味わいも、身につまされた思いのなかで、無限に

深まりゆくのである。

ただ事なかれの日々をすごして、生命をかけて打ちこむほどの思いも

体験もなく、従って何を見ても聞いても身につまされず。何もかもが

他人事で、何もかもわれ関せず焉。

それも一つの生き方ではあろうけれど、見方によってはまことに味わい

うすき人生とも言えるであろう。

人間にとって、人生を歩む上において、身につまされるということは、

やはり大事である。

そしてこれは何も個人の身上のことだけではない。身につまされる

思いで、おたがいのまわりを、もう一度よく見まわしたい。

おたがいのこの国日本のことも、わが身につまされる思いで、もう

一度よくよく考えてみたい。反省してみたい。

 

● われ【我】 関(かん)せず焉(えん)

 

(「焉」は漢文で断定の意を表わすのに用いる助辞) 自分は関係がない。 

その物事にはまったく関心がなく超然としているさまにいう

 

それは夢にすぎないだろうか

ただ おたがい 同じ国に生きる人間として

素直に心と心を寄せ合い 手と手を握りあって

この国日本の 繁栄と平和と幸福とを

ひとすじに探し求めることができないだろうか

真剣になれば 意見の対立もおきるに違いない

だが 私たち日本人としての願いが一つなら

かならず そこに高い調和と力が生まれよう

それは 決して夢ではないはずだ

 

 

この続きは、次回に。

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