「道をひらく」松下幸之助 ㊿+25
○ 生きがいある人生のために
・真実を知る
人間は、ものの見方一つで、どんなことにも堪えることができる。
どんなつらいことでも辛抱できる。のみならず、いやなことでも明るく
することができるし、つらいことでも楽しいものにすることができる。
みな心持ち一つ、ものの見方一つである。同じ人間でも、鬼ともなれば
仏ともなるのも、この心持ち一つにあると思う。
そうとすれば、人生において、絶望することなど一つもないのでは
あるまいか。
ただ、この、ものの見方を正しく持つためには、人間は真実を知らね
ばならないし、また真実を教えなければならない。つまり、ものごとの
実相を知らねばならないのである。
もちろん情愛は大切である。だがかわいそうとか、つらかろうとか
考えて、情愛に流され真実をいわないのは、本当の情愛ではあるまい。
不幸とは、実相を知らないことである。真実を知らないことである。
人間はほんとうは偉大なものである。真実に直面すれば、かえって
大悟徹底し、落ちついた心境になるものである。だからおたがいに、
正しいものの見方を持つために、素直な心で、いつも真実を語り、
真実を教え合いたいものである。
● 実相
● 大悟徹底
完全な悟りを得て一切の疑念が無くなること。
・芋を洗う
このごろはあまり街中では見受けなくなったが、それでも、ときどき
思わぬところで、昔懐かしい芋洗いの風景にぶつかることがある。
大きな木桶に芋をいっぱい入れて、その桶の縁に上がりこんだ若者が
二本の丸太棒でヨイショヨイショとかきまわす。その力に押されて、
芋は上から下へ下から上へ、そして右から左にと移動して、大芋小芋
とりどりの姿が、現われては消え、消えては現われてくる。
上にあるものとても、いつまでも上にいるとはかぎらない。また下の
芋も、いつまでも下積みでいるとはかぎらない。やがては上にあがって
くる。下におりてくる。
何だか人生の縮図みたいである。人の歩みには大なり小なり浮沈が
つきまとう。上がりっ放しもなければ、下がりっ放しもない。上がり
下がりのくりかえしのうちに、人は洗われみがかれてゆくのである。
だから、たまたま上にいたとて、おごることはすこしもないし、下に
いたとて悲観する必要もない。要は、いつも素直に、謙虚に、そして
朗らかに希望をもって歩むことである。
おごりの気持ちや悲観の心が出てきたとき、芋洗いの姿を思い出す
のも、また何かの役にたつであろう。
この続きは、次回に。