お問い合せ

続「道をひらく」松下幸之助 ⑧

・今からでも

 

新しい年の新しい思いに、あれこれと心をふくらまし、一年の計は元旦

にありと、あれこれともり沢山の計画を立て、ことしこそはと誓って

みたり決意をしてみたり。そんなこんなの正月の夢も、いつのまにか

日々の惰性に流されて、ことしもやっぱりもとのもくあみ。もとのまま。

計画の立てかたが悪かったのか、力以上に望みすぎたのか、それとも

しょせんは自分の意思が弱かったのか。そんな迷いの末に、いやいや

世の中が悪いのだ、こんなはずではなかったのだと、ついグチも出て、

他の罪をかぶせて、なすべきこともつい怠りがち。

これもまた人の世の常ではあろうが、これでついウカウカの日々では、

歳月があまりにも惜しい。

まだまだ年のはじめ。今からでもおそくない。ともかくも、きょうが

年のはじめで、あしたもまた年のはじめ。毎日が年のはじめで、だから

毎日計画を立てなおして、毎日思いを新たにして、毎日誓いを立てて

みて—-。

グチは言うまい。今からでもおそくない。今からでもおそくないので

ある。

 

 ● 元(もと)の木阿弥(もくあみ)

 

いったんよくなったものが、再びもとの状態に戻ること。

[補説]戦国時代の武将筒井順昭が病死した時、死を隠すために、その

順慶成人するまで、声の似ていた木阿弥という男を寝所に寝かせ

て外来者を欺き、順慶が成人するや順昭の喪を公表したために、木阿弥

は再びもとの身分にもどったという故事からという。

 

・古仏

 

冬の古寺は静かである。枯葉のなかのスズメの足音が、シーンとした

静寂にカサコソとゆれる。そのほのぐらい本堂に、長い人間の歴史を

見守ってきた古仏のほほえみが、静かにうかんでいる。すいこまれる

ようなほほえみである。永遠のなかに没入してしまいそうなほほえみ

である。

生きていくことは容易でない。容易でないけれど、真冬のほのかな日

射しをわが身にうけて、やっぱり生きていることのありがたさが身に

しみる。

生きている日々は尊くて、その一日一日は何にもかえられない貴重な

ものなのである。けれども、その日々にとらわれて、自分だけが生きる

こと、自分が生きている間のことだけで、頭がいっぱいになってしまっ

たら、知らぬまに事の考えが小さくなり、またもや悩みの起伏にほん

ろうされる。

古仏のほほえみは、他の思うほほえみである。自分をこえたほほえみで

ある。そのほほえみが、長い年月、世と人に心のやわらぎとはげましを

与えてきた。この年のこの冬の一日、古寺に座して静かに古仏を仰ぎ

みてみたい。

 

 

この続きは、次回に。

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