続「道をひらく」松下幸之助 ㊿+4
● 馬の目かくし
この世の中、本当は、わかっているよりも、わからないことの方が多く、
知っているよりも、知らないことの方がはるかに多いのである。
人類の生命は、これから先、無限と言ってもよいほどつづいてゆくで
あろうが、これは言いかえれば、人間の知恵もまた無限に進むという
ことで、この宇宙の真理の広さ深さは、まだまだはかり知ることがで
きない。
そのはかり知ることのできない真理の一端をつかまえて、これこそ
すべてなりと断じたら、人智の進歩も、もうそれでとまってしまうで
あろう。
化学も無限、思想も無限、政治のやり方も、経済経営のすすめ方も、
すべてまだまだ無限に新しく残されているのである。
昨今とかく、自分を正しとするあまり他を排するに急な傾向が見受け
られるようだが、これはまさに馬の目かくしである。これでは事が
小さくなる。
真の繁栄を生み出すために、お互いに目かくしをはずして、もうすこし
おおらかになりたい。謙虚になりたい。
● 責める
他人を責めるということは、ほんとうはなかなかに容易でない。責め
られる方もいやならば、責める方も決して気持ちのよいものではない。
できればお互いに責め合わないでいたいのだけれど、神ならぬ身、時に
はやっぱり責めたくもなるし、また責められて気のつくこともある。
だから、責める責められるということは、人と人とが寄り合って暮ら
していくこの世の中では、さけることのできない一つの人間の宿命な
のかもしれない。
そうとすれば、せめてこの宿命をいたわり合うような、心の通い合った
姿のなかで、人間らしく責めてみたい。責められてみたい。動物なら
かみ合い血を流すしか天与の手段はないかもしれないが、人間には怒り
を愛にかえ、憎しみをいたわりにかえるだけの心の働きが与えられて
いる。その心の働きを精いっぱいにかたむけてみたい。むつかしいこ
とかもしれないが、そのむつかしさを知った上での責め合いでありたい
のである。しかし、もっとむつかしいのは、自分で自分を責めるという
ことであろう。
責めるということは、いずれにしてもなかなかに容易でないのである。
この続きは、次回に。