続「道をひらく」松下幸之助 ㊿+11
● 人類の経営
経営ということばを聞くと、何かすぐに事業経営、会社経営という
イメージが浮かんできて、だから経営というのは事業経営者がやる
もので、われわれには直接縁のないもの、そんな思いになりがちで
ある。
だがしかし〝経営〟というのを辞書で見てみると、こう書いている。
〝規模を定め、基礎を立てて物事を営むこと〟これが第一義で、
〝工夫をこらして物事を営むこと〟これが第二義。つまり経営という
のは、人間が活動するところ必ずなければならぬもので、大きくは国家
経営から各種の団体経営。政党も経営が必要なら労働組合も経営が必要。
寺院、教会も経営を忘れてはその活動をつづけることはできない。
家庭の経営もまた然りである。さらには、一人ひとりの人生を歩むこと、
これも経営であり、つまりは誰もが経営に縁があるということであろう。
これは洋の東西、思想の如何を問わないが、それにしても激動しつつ
ある昨今の世界を思うとき、人類の経営というべきものにも、時に思い
をひそめてみたい気がする。
● かわりはない
わが子はかわいい。何人あってもかわいい。一人だからかわいくて、
五人もあればかわいくない——そんなものではない。五人あっても
十人あっても、誰かが病気でもすれば、わが命にかえたいほどの祈り
に立つ。一人ひとりがかわいくて、一人ひとりがわが命なのである。
科学の進歩につれて、おどろくほどに物が多量につくられるように
なった。一枚一枚の手づくりの紙が、今は流れるようにすかれてゆく。
たくさんの物があって、たくさんに使えるのである。だから、ついつい
雑に粗末に扱いがちである。
しかし、手ですかれた紙も機械で好かれた紙も、紙そのもののねうち
には何のかわりもない。押しいただくほどにしなくとも、一枚一枚
いたわるように使いたい。子を思う心で使いたい。そこに心のゆたか
さがある。人間のゆたかさがある。
そして、この心を失えば、物のゆたかさが、暮らしの真のゆたかさに
むすびつかなくなるのである。
きょうこのごろの、ありあまる物のゆたかさのなかでお互いに三省四省
してみたい。
この続きは、次回に。