続「道をひらく」松下幸之助 ㊿+21
● 心のぬくもり
人の心は暖かくもなれば冷たくもなる。手にとってその暖かみ、冷た
さをはかるわけにはいかないけれど、心の冷暖は温度計ではかる以上
の正確さで、人から人につたわっていく。そのつたわり方は、口先で
もなければジェスチュアでもない。心と心のジカのふれあいである。
それにしてもきょうこのごろの世の中、心のぬくもりの何とうすく
なったことか。
頭がよくて、口先が巧みで、理が立って、それでなお寒々とした心の
気配しかつたわらない人の何と多いことか。そうした人と人との交わり。
そこには、ジーンと胸にひびく感動もなければ、互いに慕い寄る情感も
生まれてこない。
感謝の心がないのである。ありがたく思う心がうすれたのである。
米一粒にも天地の恩を感じ、人の情けに涙したあの日本人の心のぬく
もりはどこへ行ったのであろう。
音もなく崩れゆくこの日本人の心を、慄然とした思いで省みたい。
このままでよいのかと問いかえしてみたい。他人事ではない。
自分のことなのである。
■ 慄然
恐れおののくさま。恐ろしさにぞっとするさま。
「もし火事になっていたらと―とする」
● 自己反省
景気がよくて、みんなが順調なときに、自分ひとりが不調だったら、
これは自分のやり方、考え方に、どこか悪いところがあるのだろうと、
まずみずからを省みる。
ところが、世間の景気が悪くて、おしなべてみんなが不調なときには、
ともすれば眼が外に向いて、自身の反省を怠りがちとなる。
こう不景気では、こう世間の情勢が悪くては、というわけで、責任を
世間に転嫁して、自分の不調を安直に片づけてしまう。つまり自分は
悪くないのである。
人間というものはまことに勝手なもので、自分で自分をよほど注意し
ていないと、とかく責任を他に転嫁して、安易な納得におちいりがち
となる。
われに罪なしすべて世間にあり—–時にそういう場合もあろうけれど、
そんなときでも、世間の罪にとらわれず、われに一切の罪あり世間に
はなし、というぐらいの心がまえで、どこまでも深く自己反省をして
みたい。
ゆきづまりは、みずからを省みる心が失われたときにあらわれるので
ある。
この続きは、次回に。