お問い合せ

人を動かす経営 松下幸之助 ㉚

自分を戒めるために遵奉すべき七精神

 

われわれ人間というものは、何事においても、ともすれば安きにつきやすいものである。

こうすればいい、ああしなければいけない、ということが頭ではわかっていても、いざ実際にはどう

かとなると、なかなかよいと思うことができない。むずかしい。

やはり、これは一つには自分が可愛いからであろう。

ついつい甘やかしたくなる。適当なところでお茶をにごしておきたくなる。

これは、お互いの人情からしても、一面しかたのないことかもしれない。

けれども、だからといって、そういう姿をそのまま放置していたのでは、ズルズルと好ましくない姿を

続け、やがては自分自身がつらい目というか、苦境に陥りかねないのではあるまいか。

だからやはり、われわれは、ときには自分自身に対してきびしく戒める必要があるのではないかと思う。

 

松下電器では、昭和八年七月に、〝五精神〟というものを定め、発表した。

その内容は、

 

一、      産業報国の精神

一、      公明正大の精神

一、      和親一致の精神

一、      力闘向上の精神

一、      礼節を尽くすの精神

 

というものである。

(その後昭和十二年に「順応同化」「感謝報恩」の二精神を加えて七精神とし、合わせて「礼節を尽く

すの精神」を「礼節謙譲の精神」と改訂した)

 

なぜ、こうした五精神を定め、発表したのか。こんなことをわざわざ定めなくても、仕事はやって

いける。別に問題はない。

その前の年の昭和七年の五月には、第一回創業記念式を行ない、松下電器の使命というものをみんなで

確認しあった。そして、その使命にふるいたって力強く仕事を進めているのが実情であった。

だから、こうした五精神をことさらに定めなくても、松下電器は力強く歩んでいたのである。

けれども、問題は、果たしていつまでもその力強い歩みが続くのか、ということである。

人間というものは、一面において熱しやすくまた反面においてさめやすい。

いくら固い誓いを立てても、月日の経過とともに、しだいにその固さはとけて弱くなっていく。

しかも、ともすれば自分を甘やかしがちなのがお互い人間である。

だからこそ、昔の中国の人は、決意を忘れないようにと、堅い薪の上に寝たり、苦い熊の胆をなめたり

して、自分の身を苦しめ、自分の気持ちがゆるまないようにいろいろ工夫をこらしたという。

そういう努力をしなければ、ついつい決意もにぶりがちなのが人間の一つの姿でもあろう。

したがって、松下電器の場合も、いくらみんなが使命に目ざめたからといって、それが未来永遠に

続くというか、いつまでも変わらぬ力強い歩みが続くとは限らない。

放っておけばそのうちに、使命を見出した喜びも感激もうすれて、しだいに安きに流れ、ただなんと

なく仕事を進めるといった姿にも陥りかねない。

そして、それは何も他人事ではない。私自身にしても同じことである。

いくら、私が自分で使命を見出したからといって、そのままいつまでも、その使命感にふるい立ち

続けるかというと、そんな保証は何もない。

私自身にしても人間である。危ういものである。やがてそのうちに、使命のことなど忘れてしまわな

いとも限らない。けれども、そうなってはいけない。

だから私は、当時の松下電器の盛り上がった雰囲気がこわれないように、そして私自身もいつまでも

そういう心がまえを忘れないようにということで、〝遵奉すべき五大精神〟を定めて、それを発表し、

毎日の朝会で読み上げ、全員で唱和するようにしたのである。

これは、もちろん、社員としての心がまえを説いたものであるが、それと同時に私自身を鞭撻する

ためのものである。

松下電器の使命を達成することをゆるがせにしてはいけないし、忘れてしまってはいけない。

何もなければついつい忘れていきがちだから、日々の朝会で唱和する。

毎日の仕事のスタートのときにかみしめる。

いってみれば、自分に対して言い聞かせるのである。自分への戒めである。

ともすれば、こういったことをおろそかにしないとも限らない自分に対して、日々注意をくり返して

いる、ともいえるわけである。

人間というものは、一面、頼りないものである。いかに強い決意をしても、時間がたてば、やがて

それが弱ってくる。だから、それを防ぐためには、つねに自分自身に言い聞かせなければならない。

自分に対する説得、戒めを続けなければならない。

松下電器の遵奉すべき七つの精神というものは、松下電器が松下電器であるために、また、それぞれの

社員が自分自身のために、全員で毎朝、唱和しているわけである。

 

 

 

この続きは、次回に。

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