お問い合せ

人を動かす経営 松下幸之助 ㊱

悩んでも悩まない悩みがあるのが人の常

 

われわれが何か事をおこし、進めていこうとする場合、問題が何も生じてこないという事は、まず

ありえないのではなかろうか。たいていは、大小さまざまの問題がおきてくる。

むずかしい問題もある。思うとおりにはなかなか進まない。それで、ついつい悩みに陥り、心を苦し

める事にもなる。

企業の経営の上においても、商売の上でも、どんな仕事の上でもこれは同様である。

そこでわれわれ人間は、たえずといっていいほど、悩みに付きまとわれる。全く困った話である。

しかし、困ってばかりいたのでは、これはどうしようもない。困ったままでは、ノイローゼに陥り、

ゆきづまって自殺する、といった極端な姿にさえ陥りかねない。これでは自他共に不幸である。

どうすればよいか。どうすればよいか、ということについて、私はずっと昔から考えていた。

というのは、やはり自分で商売を始めて、経営者としての歩みを続けてくる上において、つねに悩みに

つきまとわれる。いってみれば、悩みの連続である。尽きざる悩みがある。

その悩みをすべて悩んでいたのでは、これはとても身がもたない。

どうすればよいか、ということである。

そういうことで、私自身としては、次のような考え方をすることにした。

すなわち、私の悩みは多い。悩むことは百も千もある。

しかし、千の悩みがあっても百の悩みがあっても、結局その悩みは一つである、ということである。

私はそう考えた。そう考えたというより、実際いってそうである。

千の悩みをもっているから非常につらいということではなく、本当に悩んでいることはつねに一つである。

 

たとえば、腕に一つの小さなできものができると、そのできものが非常に気になる。

けれども、こんどは腹の一部に大きなできものができたとなると、小さいできものはもう忘れて、

大きい方だけが気になる。そういうものである。

悩みもそれと同じではなかろうか。つねに一つに集結する。百の悩みをもっていても、結局、悩むのは

一つ。一番大きなものに悩みをもつ。そういうものである。

私の今までの経験の中でも、同時に五つも六つも問題がおこったこともある。

それぞれが、いわば悩みのタネである。どれも頭が痛い問題である。しかし、そういう姿をくり返して

いるうちに気づいた。

結局、その時の一番大きな悩みが頭を占めることになる。それで頭がいっぱいになれば、他のものは

みな第二、第三になってしまう。そうなるから、またなんとかやってこれたわけである。

十も二十も悩みがあって、それを全部同時に悩んでいたのでは、とても身がもたない。

ところが、うまい具合に、そうはならない。いってみれば心の自然な働きとして、人間は一番大きな

悩みだけしか悩まない。そうなっている。

もちろん、それであとの悩みが解消してしまうわけではない。しかし、それほど心を悩ませない。

そこで、人間はなんとかやっていける。生きていく道が生まれてくるのである。

さてそこで、悩みはいくら多くても、本当に悩むのは一つだけだ、ということになっても、その一つは

やはり悩みである。その悩みは悩まなければならない。けれども、問題はそれをどう考えるかである。

私はどう考えているか。私は、悩みが一つくらいあってもいいではないか、と思っている。

むしろ悩みが一つあるということは、人間にとって大事なことではないかと考えている。

ムリにそう考えても、自分が苦しむだけである。私は本当にそう考えている。

なぜかというと、つねに何か気にかかる一つのことがあれば、それがあるために大きなあやまちが

なくなる。注意深くなるからである。心がいつも活動しているからである。油断しない心になる。

反対に、何も悩みがなく、喜びのままにやっていくという姿では、そこにおのずとゆるみが出る。

そのゆるみが、あやまちにつながり、結局、マイナスをもたらしかねない。

そういう実例は世に多いのではなかろうか。

だから、一つの悩みをもつことは、むしろプラスにつながる場合が多い。

したがって、その一つの悩みからも逃げようとは考えない。それはそれとして認めて、どうそれと

取り組んでいくかを考える。

私は、そういう姿こそ、人生の生きがいというものがあるのではないかと思っている。

そういうように感じることができれば、人生は決して心配することはない。

もちろん、実際問題としては、私もつねに深刻な悩みにぶつかる。

これは人間だから仕方がない。しかし、ぶつかってからどうするか、ということである。

ぶつかりっぱなしではどうしようもない。ぶつかっても、すぐに思い直すのである。

自問自答というか、自分自身に言い聞かせる。

これは悩んではいけないのだ、悩まないようにしよう、というように考える。

そして、そう考えるだけでなく、同時に、その悩みを生じている問題を乗り越えるような見方というか

解釈をするのである。すなわち、悩みに負けないというか、自分の心がしぼまないように、むしろ

心が開けるような解釈をするのである。

極めて卑近な例をあげれば、かりに長雨が続いていやだということで悩んでいたとするならば、いや

この長雨によって豊かな水が供給され人間生活に役立つのだ、というように考える。

いってみれば、そういう見方の転換をするわけである。新しい解釈をする。

もちろん、実際におこってくる問題は、そういう雨の場合のような簡単な問題ではない。

もっと 複雑な問題が多い。だから、そういう新しい解釈はすぐに出てこない。

それで、そういう解釈にたどりつく前には、やはり何時間か、また長いときには何日間も悩む。

これはやむをえない。これは仕方がない。

そのように、私もつねに悩みをもっているのである。ただ、その悩みに負けてしまわない。

最後の結論においては、自分なりに新しい見方、解釈を見出して、その悩みを乗り越えていくわけで

ある。私は幸い、そういうようにつとめて、ともかくもやってきた。

ときにはバンの食事がおいしくない、夜も眠れない、ということもある。

しかし、考えてみると、悩むつど、自分の向上につながるわけである。そういうことがあるたびに、

知恵が一つずつついてくるわけである。

そう思えば、また悩みも結構である、ということにもなってくるのではないかと思っている。

 

 

 

この続きは、次回に。

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