人を動かす経営 松下幸之助 ㊲
・ 名医になってほしい—早期治療の大切さを説く
何か問題がある、問題点があるということを知ったとしても、それをそのまま見すごし、なんら手を
打たない、という姿に陥りがちなのが人間の表の姿ではないかと思う。
もちろん、それはその問題の程度とか緊張性にもよるであろうが、その程度とか緊急性それ自体に
対する認識ができない場合は、これはもうどうしようもない。しかし、どうしようもないからこそ、
そういう姿に陥らないよう、お互いにつね日ごろから心しあうことが大切だと思う。
昭和三十年代の初めに、松下電器は一大危機に直面した。
といっても、別に業績が急に下がったとか、経営上の数字が悪くなってきたというのではない。
状況を静かに考えてみた結果、そういう判断が出てきたのである。
金融の引き締めによる経済界の沈滞も予想されたし、またいわゆる重電メーカーが弱電業界に進出し
てきていた。そしてそれらのメーカーは、弱電業界がかつて経験したことのないような、大きな資金
力にものをいわせるような商売を進めるきらいがあった。
それからまた、松下電器の社内にも問題があった。
当時の松下電器では、一年間に三千五百人もの社員がふえていた。
しかもそれは、全体の約三割をも占めていたのである。
これだけの新人をかかえているということは、会社全体としては戦力の低下に結びつくわけである。
しかも、急に人がふえれば、それだけまとまりという点においてもマイナスとなる。
そして、会社をとりまく環境は、まことにきびしいものがある。
こういった点を総合してみると、当時の松下電器は、一大危機に直面していると見なければならなかった。
そこで私は、社員に対して、大いに注意をうながした。
各自それぞれの立場で、心をひきしめて対策を講じるよう訴えた。
一度ならず二度にわたって、それを説いた。
ところが、最初に注意を与えてから四カ月ほどたっても、あらわれてくる成果はほとんど変わってい
なかった。私は、これはおかしい、と思った。
一カ月くらいでは、あまり変化はあらわれてこないのがふつうかもしれない。だからこれは仕方がない。
しかし、二カ月たち、三カ月もたてば、ものによっては努力の結果があらわれてくるものである。
ところが、あらわれてこない。私が期待していたような成果は、どこにも見られない。
そこで私は、これはもう一度くり返して訴えなければならないと考えた。しかも、これまでと同じ
ような訴え方では、また効果があらわれないかもしれないから、ちがった訴え方をしなければならない。
私は考えた。そうして、社員に対して次のような話をしたのである。
「この姿は何が原因かというとやはりみなさんが安易な考え方を持っておられる。表面にあらわれて
いる数字が大体においてよい状態だから、安易な考えをもっておられる。
それで、やらなくてはならないということを承知していながら、本当にそれをやるという雰囲気が
できていない。そこに問題がある。しかもこれは容易ならない問題である」
私はさらに続けた。
「事がおこって、数字にいろいろなものがあらわれてきて、それからあわてて対策を講じても、それは
もうすでにおそいのだ。早期診断が必要である。
まだどこも体が悪くないときでも、名医は顔色とかちょっとした兆候を見て、あなたはどこどこが
悪いから注意しなさいといって治療する。そうすると、ほとんど健康体の状態において、根治する
事ができる。そういう名医でなければならない」
私は、社員それぞれが、それぞれの立場で名医になってほしいと訴えた。
社長はもちろん、会社全体をみる名医にならなければならない。が、それだけですべて事足りるわけ
ではない。やはり、各部門、各面の仕事、さらには一人ひとりの担当者が、それぞれの担当している
仕事に対して名医にならなければならない。
そうして、それぞれが、外部から見てまだ問題とは見えない内に、よくない点を見出して治しておく。
そういう姿をみんながあらわしていったならば、問題というものは問題になる前になくなってしまう、
ということにもなっていくわけである。
その点を、私は社員に対してとくに強調して訴えたのである。
これは、もちろん経営だけに限ったことではない。あらゆることにおいて必要なのであるが、それを、
今の松下電器も考えないといけない。健康体だから大丈夫だ、治療の必要はない、などと考えていては
いけない。しかし、今の状態では、社員のみなさんはそう考えている。これではいけない。
私はこういうことを訴えたのである。
そして私はさらに続けて言った。
「四カ月前に私がみなさんに話したときには、みなさんはおそらく、社長がまた一つの警告を発して
いる、というくらいに受けとって、そのままにしておられたと思う。ぜんぶがぜんぶ、そうであった
わけではないが、全体を通じてそういう傾向があった。こういう姿は改めなければならない。
今からでもおそくない。多少は病根がはびこっていると思うが、まだ治療できる。けれども、今日なお、
それを正しく認識せずに、まあ大丈夫だろうと考えていたのでは、やがてとり返しがつかなくなって
しまう」
そういうことで、私は、社員の一人ひとりが、それぞれの立場で、そういう点をよく考えて活動して
いってほしい、ということを強く要望したのである。
こういうように訴えた結果、社員もそれぞれなりに、私の考えを受けとめ、かみしめてくれたようである。
一大危機を迎えようとしていた松下電器は、なんとかその後は順調な歩みを続け、数年あとには、
昭和三十年の売り上げ二百二十億を、三十五年には八百億円にしようという五カ年計画の目標を、
四年目にして達成するというように成果も生まれてきたのである。
この続きは、次回に。