お問い合せ

田中角栄「上司の心得」2-⑨

「宮城まり子」の“直訴”に応えたある約束

 

前項の老母の話もそうだったが、田中角栄は相談事を受けたら、どう努力

しても応じられないものはキッパリ断るが、これは必要、やるべきだと

思ったことは、即刻「決断と実行」に移した。どんな些細なことでも、

約束した以上は、必ず守るという姿勢を守り通したのだった。

 

令和2(2020)年3月21日、93歳で亡くなった元女優・宮城まり子の陳情を

受けた際も、田中はこれは必要不可欠なものとして受け止め、政治家と

いえば判断をした。

 

経緯は、こうであった。

宮城まり子は22歳で歌手デビュー、まだ戦後の荒廃を引きずる昭和30

(1955)年の「ガード下の靴みがき」が大ヒット、NHK紅白歌合戦に出場し、

一方で女優としても活躍した。とくに高齢の方々には、あのいささか

甘ったるい歌声が蘇ってくるのではないか。

その宮城まり子は、昭和30年代にミュージカルの役作りのため脳性まひの

子どもがいる施設を訪問したのをきっかけに、こうした子どもたちのための

学園設立を思い立った。それから10年余りの歳月をかけ、ようやく私財を

投じての肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を静岡県内に開設した。

当時、日本にはまだ社会福祉という概念が希薄で、旧優勢保護法下で

障害者への偏見も強く、そうした障害のある子どもの教育の場もまた、

整備されていなかった。宮城は、その間、厚生省(現・厚生労働省)や

静岡県に粘り強い働きかけを続け、特例としてようやく学園の設立認可を

取り付けた。開設は昭和43(1968)年、定員12人の子どもたちでのスタート

だった。学園では、終始、子どもたちからは「お母さん」と呼ばれていた

のである。

ちなみに、「ねむの木学園」とは、宮城と私生活で長年のパートナーだった

作家の吉行淳之介が命名している。その際、宮城は吉行から三つの約束を

させられていた。やるからには、「愚痴を言わない」「資金が足りないと

言わない」「もうやめたいとは言わない」の〝3言わない〟というもので

あった。

さて、ここからが田中の出番である。

宮城は開設から時間が経つと、ある行き詰まりを感じた。

当時、国の養護施設で教育を受けるための予算は、中学校卒業の年齢

までとなっていた。中学を卒業する年齢になると高校進学どころでは

なく、卒業後の身の置きどころをどうするかというケースが多々あった

のだった。

宮城は悩んだ末、首相官邸へ〝直訴〟の電話を入れたのだった。

首相は、2カ月前に就任したばかりの田中角栄である。

学歴は高等小学校卒、「庶民宰相」「今太閤」の声があった。

また、一方で人情家としても伝わっていた。

宮城には、そうした人物なら理解を示してくれるかも知れないとの思いが

あった。昭和47(1972)年9月、女優からの直接の電話に何事かと電話口に

出た秘書官に、宮城はこう言ったのだった。

 

● 荒廃

 

1. 建物や土地などが荒れはてること。「戦争で国土が荒廃する」

2. 荒れすさむこと。「人心の荒廃した社会」

 

● 直訴

 

1. 一定の手続きを経ないで、直接に君主・将軍・天皇などに訴え出る

    こと。直願。越訴 (おっそ) 。「領主に窮状を直訴する」

2. (比喩的に)直属の上役ではなく、その上の立場の人に直接訴え出る

    こと。「社長に直訴する」

 

 

この続きは、次回に。

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