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田中角栄「上司の心得」2-㉑

● 葬祭行事を生かせ。「上司力」発揮の最大のチャンス

 

田中角栄が冠婚葬祭という、極めて儒教的な「四大礼式」を大事にした

ことは知られている。なかでも、葬祭行事には、何をおいても優先する

のが常であった。

人の死、葬儀に心を込めて向かい合う姿は、何よりも遺族をはじめ関係者の

琴線に響く。田中はそうした葬祭行事には、誠心誠意、損得勘定抜き

向き合っていた。それは強大無比だった田中人脈の構築と無縁でなく、

結果的には世の「心理戦争」を制する有力なファクターになっていたので

ある。

そうした事例を、二つ挙げてみる。

 

一つは、すでにロッキード裁判が始まっていた昭和56(1981)年2月28日の

話である。田中は多忙な日程をやりくりし、突如、ヘリコプターで長野県

・伊那谷に舞い降りたのだった。じつは、時に落選中の田中派前衆院議員

だった中島衛という人物の父親の葬儀に出席し、中島の落胆無聊をなぐ

さめるためであった。空を飛んだ御大は、事前にすでに部下である田中派の

幹部に号令を発していた。二階堂進、後藤田正晴、竹下登、金丸信ら7人

への葬儀出席要請であり、彼らは号令に従い鉄道で中央本線茅野駅に結集

したのだった。

地元記者が、次のように言っていた。

「7人衆はここから車で中央自動車道に入って伊那谷に向かったのだが、

じつはこの自動車道の開通は1カ月後だった。

未通の高速を走るとはケシカラン話だが、日本道路公団(のちに分割・

民営化)は『視察のため』を理由に許可してしまったということだった。

建設省は、田中派の〝王国〟。ましてや、田中先生の意向とあれば、公団に

オーケーを出させるのは朝メシ前のようであった。

御大以下、田中派の歴々を集めての葬儀に、中島前議員は感激に震えて

いた」

その後、中島は次の選挙で復活を果たし、田中派の中堅として活躍の場を

得たとともに、より田中の忠実な部下となったのだった。

 

もう一つは、昭和59(1984)年4月16日の大蔵大臣だった竹下登の、父親の

葬儀のときである。時に、竹下が田中派内で勢いをつけつつあったことで、

権勢維持を図りたい田中との確執が言われていた。

ここで出たのが、いかにも田中らしい型破りな葬儀への対応だった。

当時の田中派は衆院両院で120人ほどを擁し、その結束力から「田中軍団」と

言われていた。軍団の半数以上の、じつに69人の議員が葬儀に参加すると

いうべらぼうぶりだったのである。そのべらぼうぶりは、もう一つ、田中の

号令下、なんと飛行機までチャーター、その69人が島根県の出雲空港に

降り立ったことにあった。地元記者のこんな述懐が残っている。

「出雲空港のコビーの旅行客などは、皆、一様に驚いた表情だった。

全員黒服の団体となればソノ筋の集まりかといぶかったが、よく見れば

全員が議員バッジを胸につけたセンセイたちだった。

一方、一行はその日のうちに羽田へ戻ったのだが、葬儀場から空港への

途中、出雲蕎麦で知られる『八雲本陣』に立ち寄り、蕎麦とビールで

和気藹々の時間を過ごした。田中元首相は得意の『角栄節』で笑いを

誘いながら、機嫌よく軍団の面々にビールをついで回っていた」

この葬儀を機に、竹下の田中派内での動きにややブレーキがかかった。

しかし、翌年2月、田中が脳梗塞を発症、事実上、政治生命を閉じたことで、

結果的にはこれを機に竹下は天下取りに動き出すことになるのである。

先のヘリコプターで駆けつけた葬儀はもとより、ハイジャックを心配する

声さえ出る中であえて飛行機をチャーターしてまで駆けつけるといった

ことは誰にもできることではないが、田中はよくこう言っていたのだった。

「結婚式などは本人が喜んでいるのだから、どうしても出席しなければと

いうことでもない。しかし、葬儀は別だ。残された者の心痛には、できる

だけのことをしてやるべきだ。ワシの人との接し方は、戦術、戦略という

ものはない。相手が田中と会ってああよかった、助かったと思ってくれ

たら、それで十分なのだ」

 

● 儒教的

 

孔子が唱えた道徳・教理を体系化したもの。その学問内容を儒学という。

儒教は、その国家教学としての規範性・体系性を強調した称。→儒学

 

● 儒教

 

中国の代表的思想春秋時代末期の孔子(こうし)(孔丘)に始まり、

戦国時代には諸子百家(しょしひゃっか)の一つであったが、(かん)の

武帝(ぶてい)の紀元前136年(建元5)に国教となり、それ以後清(しん)朝の

崩壊に至るまで歴代朝廷の支持を得、政治権力と一体となって中国の社会・

文化の全般を支配してきた。また漢字文化圏とよばれる日本、朝鮮半島、

東南アジア諸地域にも伝わり、大きな影響を与えている。

同類の語として儒学儒家があるが、中国では教の語はあまり用いられず、

学派を意味する儒家、その学問をいう儒学の語によってこれを示すことが

一般的である。儒教の語は、外来の仏教に対して300年ごろに生じたもので

あるらしく、後世に至るまで主として儒仏三教を並称するような場合に

使用されていた。儒家・儒学に対していえば、儒教は教化の面を重視する

語であり、いくぶんか宗教的な意味を含む語であったといえよう。

思うに儒教は本来が士大夫(したいふ)(治者階級・知識人)の学とされて

おり、その意味で儒家・儒学と称することがふさわしかったのである。

そしてこの点は日本でも同様であった。

ところが明治以後の日本では、学派、学問、教化のすべてを含んで広義に

儒教と称するようになった。おそらくは世界史的視野にたってキリスト教、

仏教、イスラム教などと並称する場合、やはり儒教とよぶことがもっとも

便宜であったのであろう。儒教は宗教ではないが、その中国に果たして

きた役割からすると、欧米のキリスト教に匹敵するからである。

 

● 四大礼式

 

日本古来の四大礼式、元服・婚礼・葬式・祖先の祭礼のこと。

また、一般に、慶弔の儀式。

 

● 損得勘定抜き

 

ある物事に関わったことで、損をしても得をしても意に介さないことを

意味する表現。「損得抜きの関係」と言った時には、お互いに利害を気に

せず、時によっては一方がもう一方に献身的に尽くす関係などを意味する。

損得勘定抜き」とも言う。

 

● 落胆

 

期待や希望どおりにならずがっかりすること。

「審査に通らず落胆する」

 

● 無聊(ぶりょう)

 

退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。

また、そのさま。むりょう。

「無聊を慰める」「無聊な(の)日々」

 

● 確執

 

互いに自分の意見を強く主張して譲らないこと。

また、そのために生じる不和。かくしゅう。「兄弟の間の確執」

 

● 述懐(じゅっかい)

 

1. 思いをのべること。「心境を述懐する」

2. 過去の出来事や思い出などをのべること。

  「事件当時のようすを述懐する」

3. 恨み言をのべること。愚痴や不平を言うこと。

  「女どもも花見にやらぬと申して―致す程に」〈虎明狂・猿座頭

 

● 和気藹々(わきあいあい)

 

和気藹々」(和気藹藹・和気あいあい)とは、複数の人々が集まる場の

雰囲気が良いことを表すポジティブな意味を持ち、ビジネス・プライ

ベートのどちらにおいても日常的に使う機会がある言葉です。2019/09/09

 

● 戦術

 

「戦術とは、作戦・戦闘において任務達成のために部隊・物資を効果的に

配置・移動して戦闘力を運用する術である」つまり戦術とは、「手段、

オペーレーション」です。

戦術は戦略を実現させるための手段であり、成果を出すための具体的な

方法を指します。

 

● 戦略

 

「戦略とは、一般的に特定の目的を達成する為に長期的視野と複合思考で

力や資源を総合的に運用する技術、化学である」

実は多くの企業が、戦略と戦術を十分区別しないまま経営を行っています。

というのも、経営者は「戦術」を「戦略」だと思い込んでいることが多い

のです。

 

● 戦略と戦術の違い

 

戦略は、英単語で表すとWHAT(目的)です。

「何をすればいいのか」「何をすれば儲かるのか」というところから

考え、企業の進むべき方向を考えることが戦略です。

現状の延長線上でやり方や方法を改善したり、業務を効率化したりする

ことが戦術と言えます。

 

 

この続きは、次回に。

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