お問い合せ

ピーター・F・ドラッカー「経営者の条件」⑩

□ 会議の生産性をあげる

 

第二次世界大戦から機会にかけてアメリカでもっとも成果を上げた民間人、

破産寸前のニューヨーク大司教区を建て直したことで有名なフランシス・

スペルマン卿にいたっては、一日に一人でいられた時間は、朝のミサ時の

二五分間と就寝前の祈祷時の二五分だけだったという。

普通のトップマネジメントは、これほどまでに時間を取られているわけ

ではない。しかしマネジメントの人間の時間の使い方についての調査に

よれば、若手の経営管理者やスペシャリストでさえ、一日の半分は何ら

かの会議に出させられているという。会議に出ないことを許されている

のはごくわずかの上席研究者ぐらいのものである。

相手が一人でも会議と同じである。

したがって成果をあげるには、会議の生産性をあげなければならない。

もちろん会議は懇談ではなく仕事の場としなければならない。

会議の生産性をあげるには、事前に目的を明らかにすることが必要である。

目的が違えばそのための準備もその後の成果も違うはずだからである。

 

・公式見解、プレスリリースの作成—-事前に草案を用意する。

 会議後は、誰か予め定められた者が正文を配布する。

 

・組織改革などの発表文の作成—-会議における発言は発表文の作成に

 必要なものに絞る。

 

・一人による報告—-発言はその報告に関するものに絞る。

 

・数人あるいは全員による報告—-発言はそれらの報告に関するものに

 絞る。報告は予め配布しておく。一人当たり一五分以内に制限しても

 よい。

 

・会議主催者への報告—-会議主催者は発言を質問にとどめる。

 まとめは行ってもよいが意見はいわない。

 

・主催者への面会—スペルマン卿は朝食会と夕食会をこれに充てていた。

 この種の会議に生産性はない。これに出させられることは地位と伴う

 代価である。もちろん極力減らすべきものである。

 スペルマン卿は朝食会と夕食会に絞ったからこそ仕事の成果をあげた。

 

会議室の生産性をあげるにはかなりの自制を必要とする。

会議の目的を決めそれを守らなければならない。

目的を達したときには直ちに閉会する。別の問題をもち出してはならない。

総括したら閉会する。

会議の生産性をあげるにはフォローが重要である。

この点に関しては私の知っている最高の経営者アルフレッド・スローンが

名人級だった。1920年代から50年代までGM(ゼネラルモーターズ)を

率いたスローンは、週六日のほとんどを会議にとられていた。

三日は委員会の類、三日は打ち合わせのたぐいだった。

委員会では冒頭必ず会議の目的を明らかにした。あとは耳を傾けた。

メモはとらず、わからないことを聞く以外は発言もしなかった。

最後にまとめとあいさつを述べて席を立った。

しかし部屋に戻って直ちにメモを書き、そのコピーを出席者全員に届け

させた。メモでは結論と宿題を明らかにした。担当者と期限を示した。

それらのメモは一つひとつが名文だった。スローンはこうした傑出した

経営者となった。

 

● フランシス・スペルマン卿

 

フランシス・ジョセフ・スペルマンFrancis Joseph Spellman1889年

5月4日 – 1967年12月2日)は、アメリカ合衆国カトリック教会ニュー

ヨーク大司教であり、教皇ピウス12世枢機卿である。

マサチューセッツ州に生まれた。1911年フォーダム大学を卒業したが、

司祭になろうと決意して、イタリアローマに在る神学校に通った。

1939年にニューヨーク大司教に就任し、この時期に日本や日本領土の

朝鮮半島を訪問した。

1946年2月18日、教皇ピウス12世によって枢機卿に指名された。

カトリック教会の中に留まるのではなく、アメリカ合衆国の生活習慣や

価値観に適応して行こうという風潮が強まった。

これを支持していたスペルマン枢機卿は保守派と対立し、教皇レオ13世

仲裁される羽目となった。又、熱烈な反共主義者だったスペルマンは

ジョセフ・マッカーシーの支持者でもあった他、マルタ騎士団の一員でも

あった。保守的な思想の持ち主であり、当時のファーストレディであった

エレノア・ルーズベルトが書いたコラムに対して「反カトリック」で

あると糾弾したり、カトリック教徒として初めて大統領となったジョン・

F・ケネディを支持せずリチャード・ニクソンへの支持を表明していた。

第2バチカン公会議でも改革を拒否した。

 

● 自制

 

自分の感情や欲望を抑えること。「―しがたい恋情」「―心」

 

● アルフレッド・スローン

 

アルフレッド・プリチャード・スローン・ジュニアAlfred

Pritchard Sloan Jr. 1875年5月23日 – 1966年2月17日)は、ゼネラル

モーターズ(GM)で長年社長を務め、ゼネラルモーターズを全米のみ

ならず世界最大級の製造業企業へと成長させた人物[1]

社会貢献にも熱心であった。

スローンはアメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブンで生まれ、

電気工学を学びマサチューセッツ工科大学(MIT)を1892年に卒業した。

彼は1899年ニードルベアリングボールベアリングを製造するハイアット・

ローラー・ベアリング社(Hyatt Roller Bearing)の社長となった。

20世紀初頭にはフォード・モーターも短期間ハイアット社のベアリングを

使用していた。1916年、ハイアット社はユナイテッド・モーターズ社

(United Motors Corporation)と合併し、さらに最終的にGMの一部と

なった。スローンは同社副社長になり、1923年には社長、1937年には

取締役会会長となっている。

スローンは、大量生産方式の洗練、利益率を上げる会計手法の導入、

モデルチェンジなどのマーケティング手法の導入などによりGMを拡大

させ、他社の経営にも大きな影響を与えた。

 

 

この続きは、次回に。

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