「道をひらく」松下幸之助 ㊿+29
・まねる
徳川家康という人は、ずいぶんえらい人であった。人によっては好き
きらいもあるかもしれないが、ともかくも天下を安定させ、三百年の
治世の基礎をきずいた。どこかにすぐれたところがあったにちがいない。
だからこそ、徳川家康プームといわれるほどに、その小説が読まれ、
愛好されたのである。
しかし、家康がえらいからといって、そのままこれをまねようとする
のは、これはいささか見当ちがいである。家康なればこそあの道が
歩めたのである。たとえ家康以上の人物があったとしても、まねる
心だけではおそらく道を誤るであろう。
ものをおぼえることは、まねることから始める。こどもの歩みを見て
もよくわかる。しかしウリのつるにナスはならない。柿の種をまけば
柿がなり、梅の木には梅の花が咲く。
人もまたみなちがう。柿のごとく梅のごとく、人それぞれに、人それ
ぞれの特質があるのである。大事なことは、自分のその特質を、はっ
きり自覚認識していることである。
その自主性がほしい。まねることは、その上に立ってのことであろう。
● 治世
2. 統治者として世を治めること。また、その期間。
「徳川一五代の―」
・心を高める
禅の修業はなかなかきびしい。ちょっと身じろぎでもすれば、たちまち
パンパンと警策がお見舞いする。痛いとも言えないし、苦しいとも言え
ない。きびしい戒律にとりかこまれて、箸の上げ下げすらも自由でない
のである。自堕落になれた人間には、瞬時もがまんがならないであろう。
しかしこのきびしい戒律も、回を重ね、時を経るに従って、それがしだ
いに苦痛でなくなってくる。戒律を戒律と思う間は苦痛である。
しかし、その戒律がいつしか身につき、日常坐臥に自然のふるまいと
なってあらわれる時、もはやそれは苦痛ではない。そして、このきび
しさを苦痛と感じなくなったとき、そこからきたえぬかれた人間の美し
さがにじみ出てくるのである。
人間は本来偉大なものである。みごとなものである。しかしそのみごと
さは、放っておいてはあらわれない。易きにつくのが人間の情であると
しても、易きがままの日々をくりかえすだけならば、そこにはただ、
人間としての弱さが露呈されるだけであろう。
おたがいに与えられた人間としての美しさをみがきあげるために、
きびしさを苦痛と感じないまでに心を高めたいものである。
● 警策
禅宗で、座禅中の僧の眠けや心のゆるみ、姿勢の乱れなどを戒める
ため、肩などを打つ木製の棒。長さ1メートルほどで、先は扁平な
板状。けいさく。
● 戒律
1. 仏語。修行者の生活規律。仏のいましめを自発的に守ろうとする
心の働きをいう戒と、僧に対する他律的な規範をいう律を合わせ
た語。
● 自堕落
人の行いや態度などにしまりがなく、だらしないこと。また、そのさま。
ふしだら。「―な生活」
● 坐臥
座っていることと寝ていること。おきふし。また、日常。ふだん。
● 露呈
隠れていた事柄が表面に現れ出ること。また、さらけ出すこと。
「矛盾が―する」「本性を―する」
この続きは、次回に。