Think clearly シンク・クリアリー ㊲-1
37. 読書の仕方を変えてみよう—読書効果を最大限に引き出す方法
□ 読んだ本の内容をほとんど思い出せない私たち
(中略)
読書というものにも「五○のマス目」がある読書カードがあったら、と想像して
みよう。
(中略)
それにもかかわらず、私はほとんどの本の内容を曖昧にしか思い出せない。
ずらりと並んだ本の背表紙に目を走らせても、おぼろげなイメージが浮かんでは消えて
曖昧な感情と混じり合ったり、とぎれとぎれの場面が閃いたり、霧の中を静かに漂流す
るゴムボートのように頭の中を通り過ぎる文章があったりする程度だ。
全体の内容を簡潔にまとめられる本はめったにない。
中には、読んだかどうかすら思い出せない本も何冊もある。そんなときは本を開いて、
皺になっているページや、ページの端のメモ書きを探さなくてはならない。
そんなことをしていると、恥ずべきなのは穴だらけの私の記憶なのか、それらの本の
読書効果の薄さなのかがわからなくなってくる。
唯一の慰めは、友人たちの多くも似たり寄ったりの経験をしているということ。
本に対してだけでなく、エッセイでも、ルポルタージュでも、何かの分析結果でも、
一度は楽しみながら読んだはずのあらゆるタイプの文章に対して同じことが起きる。
そのほとんどが記憶には残らない。覚えているのは、情けなくなるほどわずかだ。
□ よい本を選んで「続けて二度読む」ことのすすめ
内容の大部分が頭の中に浸透しないとしたら、「読むことの意義」はいったいどこに
あるというのだろう?
もちろん、読んでいる最中の読書体験が重要なのはいうまでもない。
(中略)
私たちは頭の中に変化が起きるのを期待して本を読んでいるわけではない。だがそれに
しても、読んだ内容がこれほど定着しないのはどうしてだろう?
それは、私たちの「読み方」が間違っているからだ。私たちは、無作為に本を選びすぎ
ている。
そのうえ、本の「読み込み方」も十分ではない。すばらしい獲物をとらえる訓練をほど
こされないままに、ただあたりをうろうろと歩き回っている犬のように、私たちは注意
を向ける方向を自然の成り行きにまかせすぎている。
私たちは、もっとも重要な資源である私たちの「注意」を、それに見合うだけの価値の
ない本に浪費してしまっているのである。
そういうわけで、私はいまでは、数年前とは違う読書の仕方をしている。
読む量は同じなのだが、読む本の数は以前より少ない。「よい本を選んで、二度読む」
ようにしているからだ。
(中略)
そうして選び出した本を、私は「二度」読む。それも、「続けて二度読む」ことに決め
ている。
同じ本を二度読むのかと、驚く人もいるかもしれない。しかし音楽だったら、同じ曲を
何度もくり返し聴くのは普通のことだ。
(中略)
二度読んだときの読書効果は、一度しか読まないときの倍どころではない。
もっとずっと高くなる。私の経験からいえば、ほぼ一○倍にふくれあがる。
一読後、私の記憶に残るのは本の内容の3パーセント程度だが、二度読んだ後では
それが30パーセントにまで増えている。
時間をかけて集中して読めば、どれだけ多くのことを吸収できるか。
二度目に読んだときに、どのくらい新しい発見があるか。
慎重な読書の仕方で、どのくらい理解が深まるか。これに私はいつも驚いてしまう。
(中略)
ドストエフスキーのように、長いあいだ絵を注視するのではなくて、iPhoneを使って
写真を撮った場合でも、絵の印象はそれほど深く頭の中に刻み込まれるだろうか?
おそらく無理だろう。あれだけ深く没頭したからこそ、ドストエフスキーは自身の
小説でその絵について鮮やかに描写することができたのだ。
キーワードは「没頭」だ。いろいろなサイトを次から次へとただ眺めだけの「ネット
サーフィン」とは対極に位置する言葉である。
この続きは、次回に。
2024年12月26日
株式会社シニアイノベーション
代表取締役 齊藤 弘美