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創業家物語 第1章

創業家物語

Founder Story  有森 隆

2008年7月29日 第1刷発行

 

まえがき

2007(平成19)年4月5日から、現在進行形で『日刊ゲンダイ』に60余回連載中の

「創業家物語」で取り上げた51の企業とその一族を再度取材して、1冊にまとめた

ものである。

「売り家と唐様で書く三代目」という諺がある。

初代が苦労してつくった家屋敷を、気概をなくして没落した三代目がハイカラな

外国語(諺では中国風の書体を指すのだが、今はForSaleかもしれない)で書いた

張り紙を貼って、自分の家を売りに出すようになるという意味だ。

そこで、事業継承のための知恵が生み出された。

創業者は、子孫に何を引き継がせたいのか。これをはっきりさせるべきだ。

血統も家名も、企業も、財産も、四つまとめて全部継がせたいというのは虫が

良すぎる。ましてや上場企業は社会の公器だ。家業のつもりでも私物化しては

いけない。創業者は、息子に企業を残す必要はない。ライバル企業にそれなりの

品格と力量を持った経営者がいるなら、そういった人物に会社を譲ったほうが

はるかにいい。そのようが従業員も取引先も幸福だ。

これが「創業家物語」の結論である。

 2008年7月 有森 隆

 

 インターネットより、

「売(う)り家(いえ)と唐様(からよう)で書く三代目」

初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに

出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。

遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの。

私見

私はこれまでに、ドラッカーに関する書籍で自分自身の参考になると思われる言葉や考え方を抜粋し、ブログで発信しております。今回の書籍は、日本における創業者=創業家に関する書籍ですが、ドラッカーの考え方と同じ考え方の創業者が多数紹介されておりますので、一部抜粋のうえご紹介致します。一度、読んでいただくことで今日の大企業といわれている企業の生い立ちも理解できると思います。

 

第1章

「男子継承型」の創業家

石橋家-

ブリジストン□一番利幅のあった足袋に絞った。

徒弟には給料を払って労働時間も短縮し当時としては画期的な労務管理を

したが、父からこっぴどく叱られた。

徒弟制度の仕来たりにそぐわなかったからだ。

 

武田家-

武田薬品工業□武田國男は、事業の選択と集中を決断した。非医薬品事業から

撤退し、最先端の医薬品へ経営資源を集中した。研究開発の鍵は人にある。

運の強い人、開発実績のある人を「時価(市場価格)でスカウトしてくる。」

「外資に狙われるのは、世界的に寡占化が進む業種で、競争力があって時価

総額の低い優良企業だ」(米国の著名なM&A会社の社長)

この条件にピッタリなのが製薬業界であり、武田なのだ。

米国のメガファームがM&Aの標的にしているのは「武田とエーザイ」との情報も

ある。

「寡占化」とは少数の供給者が市場を支配すること。 新規参入が困難。

価格競争や技術競争、サービス競争が起き難く、供給者は安定的な利益を

確保できる一方、消費者の利益はなおざりになる危険がある

 内藤家-エーザイ□特許切れの影響は甚大で、この売り上げ減をカバーするために、ニーズの多い抗がん剤の領域での新しいビジネスの立ち上げを考えたわけだ。

 

正田家-

日清製粉□転業の動機がふるっている。

『正田貞一郎小伝』(正田貞一郎小伝刊行委員会)によると、「米問屋は

投機的になりがちで、子孫のために伝える事業ではなく、それにくらべると

醤油業は穏健着実であって、自分の境遇に適する」と判断したというのだ。

 

森家-

森ビル□森稔語録を集めてみた。「人、物、カネ、情報は国境を越え、最も魅力

ある都市に集中する。「バーティカル・ガーデンシティ(立体的な緑園都市)を

都心につくりたい。地震に強く、豊かな都市文化を育むような緑豊かな超高層の

都市モデルを探し求めてきた。」

 

濱田家-

赤福□濱田ますは、「もち米や小豆、砂糖の原産地にこだわり、本物が手に入る

ようになるまで、決して赤福餅をつくらなかった。こうやって味を落とさず、

赤福の品質を守った」「目先の利益よりも末長い商売を考えろ」

 

小倉家-

ヤマトホールディングス□大和運輸クラスの事業規模では、「選択と集中」を

徹底しなければ闘えない。宅急便を成功させるためには、少ない人材をここに

集中しなければ勝てっこなかったからだ。

 

下村家-

J・フロント リテイリング□「年を重ねる者にても実績の足らぬか、才知の

優れざる者を、先輩先輩よりと次第をして役目に任じる事、おおいに悪し。

老若新古にかかわらず、信の心をたしなみ、才力をそなえたる人物を、ぬきん

でて引き上げ、大役を申しつけるべきなり」大丸の創業家である下村家に伝わる、

店主の心得である。奥田は他の百貨店より一足早く事業構造の改革に乗り出した。

主力の百貨店事業では、まず不採算の国内三店舗、海外十一店舗を閉鎖。

希望退職者を募集し、全従業員のほぼ10%に相当する約850人を削減した。

20~30%の値引き販売が恒常化していた外商もシステムを見直した。

このように、奥田は次々と施策を打ち出した。

奥田務-1939(昭和14)年10月、三重県津市で生まれ、7つ違いの兄が、トヨタ

自動車の社長・会長、日本経団連会長を務めた奥田碩である。

下村彦右衛門正啓の経営哲学は、「先義後利」(義を先にし、利を後にする者は

栄えるという意)。

 

青井家-

丸井グループ□二代目の忠雄(75歳)は、商売を永続させていくには、「時代に

合わせて(企業は)変わらねばならない」という忠治の遺訓を守っただけでなく、

その考えを発展させた。

 

この続きは、次回に。

 

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