成功の要諦 -16
「無心」とは仏の慈悲の心
私は最初に、人は何のために生きるのかといえば、世のため人のために尽くすためだと言いました。
他人さまに美しい優しい思いやりの心で接していく。
いや、他人さまだけではなく、森羅万象あらゆるものに思いやりの心で接していく。
それが生きていくために一番大事なことだと言いました。
これは現在の地球を取り巻く問題を見てもわかります。
今は我々人類だけが大変な繁栄を遂げて文明生活を享受していますが、実は地球は大変病んでいます。
このまま我々が贅沢の限りを尽くしていったならば、この地球は破壊され、我々人類が住むことが
できなくなってしまうかもしれません。
環境学者の声に耳を傾けるまでもなく、人口問題を見ても、資源問題を見ても、また地球環境問題を
見ても、我々人類にとってだけよければいい、という横暴な考え方では、もう人類が生きていけない
ことは明らかです。
この地球上に生存する森羅万象あらゆるものは共に生きていかなければならないのです。
それには、生物界の頂点にいる我々人類が、美しい思いやりの心を持ってあらゆる生物にまで
愛の心を差し出していかなくてはいけない。
そうしなければ、地球は存続できず、人類も生存していけないのではないかと思います。
禅宗では、座禅を通じて「無」になることが極致だといわれています。
この「無」になるということは、言葉を換えると「無私」、つまり自分を無くすこと、また「無心」、
心を無くすことだともいわれています。
我々は妄念を心に抱きますが、その妄念を抱く心を無くすことが「無」だというのです。
私は、この「無」こそが仏の心なのではないかと理解しています。
「無」になったときに仏の本当の心がわかる。
そしてこの仏の心とは慈悲の心です。
修行に修行を積んで行き着く先は、お釈迦様が到達された仏の心、すなわち慈悲の心に満ち満ちた
状態に自分を持っていくことなのではないか。
それが禅の極致といわれているのだと理解しています。
我々は難しい修行もできませんし、また実際にしてもいません。
しかし、優しい思いやりの心で、周囲の人たちに、あるいは森羅万象あらゆるものに接しなければ
ならないというぐらいは理性でもわかります。
ですから、せめてそれを実行していくことが大事かのではないか。
そう私は思っています。
一回しかない人生をどう生きるのか
私は、このたった一回の人生を、精の限り、魂の限り、一所懸命努力につぐ努力をしていこう、
そしてその成果を周囲の人たち、いや地球人類のために使っていこうと思っています。
そのようなダイナミックな生き方をしながら世の中にお返しをしていくことこそ、生きる目的では
ないかと思っているのです。
先ほどから繰り返し申しているように、人生の目的は、持って生まれてきた魂が少しでも美しい魂に
なったか、ならなかったか、それだけなのではないかと思うからです。
生活が貧しかろうと、どんな逆境にあろうと、日々美しい魂になるように自分の魂を磨いて過ごして
いらっしゃる皆さんこそが、立派な目的に向かって努力をしていらっしゃる方々なのです。
そこにこそ、この世に生まれてきた本当の意味があるのだと、私は今、思っています。
どうか皆さんも、一度そのような見方で自分の人生を検証してみていただきたいと思います。
さすれば、「人は何のために生きるのか」という問いの答えを必ず自分の手につかみ取れるのでは
ないかと思います。
この続きは、次回に。