ピーター・F・ドラッカー「経営者の条件」㉚
中規模の公立研究所の所長が、部長の一人を部長職から動かさなければ
ならなくなった。
その部長は、ずっとその研究所で働いており、すでに五○代になっていた。
長年良い仕事をしていたが、急に能力が落ちていた。
部長としての仕事ができないことは明らかだった。
とはいえ、たとえ公務員規則が許したとしても解雇はしたくなかった。
降格はできたが、それでは破滅させてしまうのではないかと思われた。
長年にわたる生産的かつ誠実な仕事ぶりに対して、誠実さと思いやりを
もって応える必要があった。しかし部長職につけてはおけなかった。
欠陥はあまりに明らかであって、研究所そのものの力を弱めつつあった。
所長と次長は、何度か相談したが、解決策は見つけられなかった。
しかし、ある静かな夜、中断なしに三、四時間話し合ったとき、ついに
明快な解決策が浮かんだ。あまりに簡単であって、二人とも、なぜそれ
までに気づかなかったか説明できないほどのものだった。
それは、研究所として必要であるが、部長としての能力はいらない仕事に
移すだけのことだった。
プロジェクトチームに誰を入れるか、新設あるいは既存の部門の長に
どのような責任を持たせるべきか、さらには、空席となったポストに、
マーケティングの知識はあるが技術的な訓練はない人間と、一流の技術者
ではあるがマーケティングの経験はない人間のいずれをつけるべきか、
などの問題には、まとまった時間が必要となる。
人事の決定が時間をとるのは、神は、人を組織のための資源として創造
したわけではないという単純な理由による。
人は、組織においてなすべき仕事に適した大きさや形では現れてくれない。
仕事に適するように組み立て直したり鋳直したりすることはできない。
人は常に、仕事に関してせいぜい及第点であるにすぎない。
したがって、ほかに代えるべき資源が存在せず、人を使って仕事をせざる
をえないときには、多くのじかんと思索と判断が必要となる。
スラブの農民には、「足がなければ頭を使え」という諺がある。
エネルギー保存の法則の変形ともとれるが実は時間保存の法則といって
よい。足の仕事、つまり肉体労働から時間を取り除けば、頭の仕事、
つまり知識労働に時間を使わなければならない。
機械工や事務員など一般労働者の仕事を簡単なものにすれば、知識労働者が
なすべき仕事は増える。仕事から知識を取り除くことはできない。
知識はどこかで、ずっと大きなまとまりとして使われなければならない。
知識労働者への時間の要求は、決して減らない。
機械工は週に四○時間働くだけである。すぐに三五時間に短縮できる。
そして彼らは、かつては不可能だった豊かな生活を送れるようになる。
しかし、機械工の余暇の増大は知識労働者の労働時間の増大によって
償われなければならない。
今日、増大する余暇の過ごし方について困っているのは知識労働者ではない。
反対に、彼らの労働時間はますます長くなっており、時間への要求はさらに
増大している。時間不足は改善されるどころか悪化している。
このような事態の重大な原因の一つは、高い生活水準というものが創造と
変革の経済を前提としているところにある。創造と変革は時間に対して
膨大な要求を突きつける。短時間のうちに考えたり行ったりすることの
できるのは、すでに知っていることを考えるか、すでに行っていることを
行うときだけである。
第二次世界大戦後のイギリス経済の不振についていろいろいわれているが、
その原因の一つは、古い世代の企業人たちが肉体労働者と同じように
短時間の労働ですまそうとしたことである。そのようなことが可能なのは、
企業にしても産業界全体にしては、既存の枠にしがみつき、創造と変革を
避けることが許される場合だけである。
これらの理由、すなわち組織からの要求、人に関わる問題からの要求、
創造と変革からの要求のゆえに、エグゼクティブの時間の管理はますます
重要となっていく。しかしまず自らの時間がどのように使われているかを
知らなければ、時間の管理について考えることはできない。
この続きは、次回に。