お問い合せ

ピーター・F・ドラッカー「経営者の条件」㊿+52

(3) 何が正しいかを知る

 

決定においては何が正しいかを考えなければならない。

やがては妥協が必要になるからこそ、誰が正しいか、何が受け入れやすい

かという観点からスタートしてはならない。

満たすべき必要条件を満足させるうえで何が正しいかを知らなければ、

正しいかを妥協と間違った妥協を見分けることもできない。

その結果間違った妥協をしてしまう。

私はこのことを一九四四年、初めての大きなコンサルティングの仕事と

してGMの経営組織と経営方針について調査したときに教えられた。

会長兼CEOのスローンは私を呼んでこういった。

「何を調べ、何を書き、何を結論とすべきかはすべてお任せする。あなたの

仕事だからだ。正しいと思うことはそのまま書いてほしい。反応は気に

しないでほしい。気に入られるかどうかなど関係ない。受け入れやすく

するために妥協しようとは考えないでいただきたい。

あなたの助けがなければ妥協できない者はこの会社にはいないはずである。

しかし何が正しいかを最初に教えてくれなければ、正しい妥協もできなく

なる」

意思決定を行うときには、この言葉を思い出すべきである。

 

ケネディはキューバ侵攻の失敗によって学んだ。

その二年後に起きたキューバのミサイル危機における勝利はこの教訓に

よるところが大きかった。彼は、意思決定が満たすべき必要条件を十分

検討するよう主張した。その結果彼は、いかなる妥協を受け入れるべきか

(空中偵察によって地上査察が不要なことがわかったあと、地上査察の

要求を暗黙裏に引き上げること)、いかなる妥協をのませるべきか(ミサ

イルを撤去しソ連に送還させること)を知りえた。

 

妥協には二つの種類がある。一つは古い諺の「半切れのパンでも、ない

よりはまし」であり、もう一つはソロモン王の裁きの「半分の赤ん坊は、

いないより悪い」という認識に基づく。前者では、半分は必要条件を満たす。

パンの目的は食用であり半切れのパンは食用となる。しかし半分の赤ん坊は

必要条件を満たさない。半分の赤ん坊は命あるものとしての子供の半分

ではなく、二つに分けられた赤ん坊の死骸である。

そもそも「何が受け入れやすいか」「何が反対を招くからいうべきで

ないか」を心配することは無益であって時間の無駄である。

心配したことは起こらず、予想しなかった困難や反対が突然ほとんど対処

しがたい障害となって現れる。換言するならば、「何が受け入れやすいか」

からスタートしても得るところはない。それどころか通常この問いに

答える過程において大切なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん成果に

結びつく可能性のある答えを得る望みさえ失う。

 

 

この続きは、次回に。

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