「道をひらく」松下幸之助 ㊵
・心を定めて
嵐が吹いて川があふれて町が流れて、だからその町はもうダメかといえば、
必ずしもそうではない。十年もたてば、流れもせず、傷つきもしなかった
町よりも、かえってよけいにきれいに、よけいに繁栄していることが
しばしばある。
大きな犠牲で、たいへんな苦難ではあったけれど、その苦難に負けず、
何とかせねばの思いにあふれて、みんなが人一倍の知恵をしぼり、人
一倍の働きをつみ重ねた結果が、流れた町と流されなかった町との
ひらきをつくりあげるのである。一方はただ凡々。他方は懸命な
思いをかけている。そのひらきなのである。
災難や苦難は、ないに越したことはない。あわずにすめば、まことに
結構。何にもなくて順調で、それで万事が好都合にゆけばよいのだが、
そうばかりもゆかないのが、この世の中であり、人の歩みである。
思わぬ時に思わぬ事が起こってくる。
だから、苦難がくればよれもよし、順調ならばさらによし、そんな
思いで安易に流れず、凡に堕さず、いずれのときにも心を定め、思いに
あふれて、人一倍の知恵をしぼり、人一倍の働きをつみ重ねてゆきた
いものである。
・懸命な思い
人生は坦々たる大道を行くが如し、という他人もあれば、嶺あり谷あり
起伏の連続、という人もある。いずれが真実か見る人によってそれは
さまざまであろう。
しかしおたがいに、まずは坦々たる大道とはいいかねるこの日々では
なかろうか。峠を越えればまた峠がある。仰ぎ見つつ息つく間もなく、
また登り始める。つまりこれが人生なりとの諦念も、そこにおのずから
わいてくるような日々である。
しかし、もしこれを神のような立場から見たならばどうなるか。
おたがいに起伏の連続と見ているこの人生も、実はそれは起伏でも
なんでもないのであって、坦々たる大道ではないかということになる
かもしれない。つまり、坦々たる大道ではないかということになるかも
しれない。つまり、坦々たる大道として与えられているこの人生を、
わが心至らず、わが心眼ひらかざるために、嶺あり谷ありと観じて
いるのかもしれないのである。
いつの日か、この真実が見きわめられるであろう。けれども、今はただ
おたがいに、懸命にわが道を歩むほかないであろう。懸命な思いこそ、
起伏があろうと、坦々としていようと、ともかくもわが道を照らす大事な
灯なのである。
● 大道
人のふみ行なうべき、正しい道。根本の道理。特に、老荘思想でいう
無為自然の道。
● 諦念
2. あきらめの気持ち。
● 心眼
物事の真実の姿を見抜く、鋭い心の働き。心の目。しんげん。
「―を開く」
この続きは、次回に。