お問い合せ

続「道をひらく」松下幸之助 ㊸

● 事あるたびに

 

〝生老病死〟をはじめとして、人の世には思いのままにならぬことが

あまりにも多くて、だからお釈迦さまは城を出て瞑想苦行、ついに生を

超え、老いを超え、病にも、死にもとらわれぬ至高の境地に達せられ

たのだそうだが、そこまでの悟りに至れば、すべての苦は去り、起こり

くる事象ことごとくこれ是なり、すべてが生成発展への道程と観ずる

ことができるようになるであろう。

お互いも、思いのままにならぬこの世を嘆き、時にはいささかの瞑想、

いささかの鍛錬をも試みてみるのだが、とてものことにお釈迦さまの

ような境地にはなり切れない。だから嘆きの種はつきないのである。

けれども、いろいろのことがあって、よくないと思うこともいろいろ

あるけれど、一見よくないと思うことも、それはいつかは必ずよき事に

むすびつき、時至れば一転して発展への道にむすびついていくのだと

いう思いに立つことは、これはお互いにとってそれほどの難行ではな

かろう。すなわち、ことあるたびにすべてがよくなるという思いを、

素直に何度もかみしめて、たゆまぬ歩みをつづけることである。

これはまた自然の理に即する道でもあろうか。

 

● 生老病死(しょうろうびょうし)

 

生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つの苦。人生

おける免れない四つの苦悩のこと。▽仏教語。四苦ともいい、また、

四天使ともいわれる。

 

<参考資料-インターネットより抜粋>

 

いまさら聞けない「仏教の基礎知識」 第3回

苦行と瞑想の末に真理を悟る

text by 魚谷俊輔

 

お釈迦様は29歳のときに、「最高の真理をつかむまでは城に戻らな

い」という覚悟をして、妻子を置いてカビラ城を出てしまいます。

その後、6年間にわたって修行の生活をするわけでありますが、近隣

の国に「マガタ国」という国があって、その王舎城というところに

入って行って、先生を探し求めます。当時のインドの宗教は「バラモ

ン教」というのですが、いろんな先生がいて、たとえば瞑想のやり方を

教えてくれる先生がいました。当時からヨガのように、「禅定」(座禅

瞑想)という習慣はあったわけです。禅定の目的は、全ての執着を捨て

ることにありました。そこでお釈迦様は禅定を行う先生のところに弟子

入りするわけですが、やはり天才的な宗教者だったのか、すぐに無執着

の境地に到達してしまって、簡単に先生を追い抜いてしまいました。

そこで、これ以上学ぶことはないということで、誰にも師事すること

なく、自ら苦行の生活を始めます。

それは超人的な苦行の生活であって、後にお釈迦様は、自分は断食を

はじめ、「他の誰よりも苦しい修行を行った」と語っています。

すなわち「難行苦行」を実践し、一生懸命自分の肉体を苛めて、修行

をし抜いたということです。でも、どんなに修行をしても悟れなかった

ということです。

そこでお釈迦様は6年近くにわたる苦行生活をやめて、禅定、すなわち

深い瞑想に入ったわけです。6年近くにわたる苦行をやめたときに、

スジャータという少女が「乳粥」をお釈迦様に出して、それが断食で

傷んだ体を癒してくれたので、非常に良い供養になったというのは有名

な話です。

お釈迦様が菩提樹の下で瞑想をしているときに、次々に恐ろしい悪魔が

現れて、お釈迦様に悟りを開かせまいとして誘惑しました。あるときは

恐ろしい形相で、「お前なんか悟る資格はない」と脅したり、あるいは

美しい女性の姿で誘惑したりしたそうであります。そのようなさまざ

まな雑念、悪魔の誘惑を打ち勝って、瞑想に入って8日目の12月8日の

朝に、ついに真理に目覚めて「仏陀」となられたわけです。

これを「成道」(じょうどう)されたと言います。恐らく長年の修業が

悟りを開くための何らかの条件となったのでしょう、その土台の上に

瞑想をして、真理を悟られて、それから説法の旅に出発されたという

ことになります。

(魚谷俊輔/UPF-Japan事務総長)

 

● 至高

 

この上なく高く、すぐれていること。また、そのさま。

最高。「―な(の)精神」「―至善」

 

● 事象

 

 ある事情のもとで、表面に現れた事柄現実の出来事。現象

「自然界の―」

 

 

この続きは、次回に。

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