新装版 こころの朝 東洋の寓話①
第1章 トルストイが絶賛した東洋の寓話「人間の実相」
1 ロシアの文豪・トルストイが絶賛
「これ以上、人間の姿を赤裸々に現した話はない。
単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ」
『孫子』の兵法の、
「彼を知り己れを知れば、百戦して殆うからず」は、あまりにも有名だが、
実は、この言葉の後に、重要な意味が隠されている。
「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。
彼を知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし」
たとえ相手を知らなくても、己の姿さえ知っていれば勝敗を五分に持っていける。だが、己知らずは、戦うたびに必ず敗れる、と断言している。まず、自分の姿を知ることが、いかなる場合でも、重要な心得であることを示した明言である。
2 人生は「旅」に似ている
自分は、どこから来て、どこへいくのか—-。
旅の目的が分からないから不安が尽きない
人生も同じだ。昨年から今年へ、今年から来年へと旅を続けていく間には、調子のいいことばかりではない。悲しいこと、つらいこと、どん底に落ちる日もある。
確かに、人生は「旅」に似ている。しかし、旅人ならば、行き先、目的地がハッキリしているが、私たちは「人生の目的」を知っているだろうか。
自分が、どこからやってきて、いずこへ行くのか知らないまま、とにかく歩いたり、走ったりしていることが、多いのではなかろうか。
一休は、「世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく」と歌っている。
女性で一番良い時が、娘時代である。だから「娘」という字は「女」偏に「良」と書く。娘が結婚して家に入ると、嫁になる。嫁さんが、子供を産むと嬶嬶といわれる。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、新婚当時はおしとやかでも、お母さんになると鼻高く、どっしりとするので、「女」偏に「鼻」と書く。
嬶の次にはお婆さんになる。額にしわが寄ってくるので、女の上に波と書くのだそうだ。また、一休は、
「門松は 冥土のたびの 一里塚」とも歌っている。
「冥土」とは「死後の世界」のことである。一日生きたということは、一日死に近づいたということであるから、生きるということは、死に向かっての行進であり、「冥土の旅」かのである。
年が明けると、皆「おめでとう」「おめでとう」と言う。しかし一年たったということは、それだけ大きく死に近づいたということであるから、元旦は冥土の旅の一里塚なのだ。
誰でも歩く時も走る時も、一番大事なのは、目的地である。
目的なしに歩いたら、歩き倒れあるのみだからである。
ゴールなしに走り続けるランナーは、走り倒れあるのみである。
行く先を知らずに飛んでいる飛行機は、墜落の悲劇あるのみである。
あそこがゴールだとハッキリしていてこそ、がんばって走ることができる。
あの島まで泳ごう、と目的地に泳ぎ着いて初めて、ここまで泳いできてよかったと、一生懸命泳いできた満足がある。
目的なしに生きるのは、死ぬためにいきるようなものだ。死を待つだけの人生は、苦しむだけの一生に終わる。
「人間に生まれてよかった」と心から喜べる「人生の目的」を知ることの大切さを教えるために、釈迦は、私たちを「旅人」に例えたのである。
この続きは、次回に。