お問い合せ

田中角栄「上司の心得」⑤

「ワシがおせっかいをやいたことにしておけ」

 

さて、竹入が藤原に出版中止要請をしたものの、藤原は頑としてノーで

あった。こうした中で、万策尽きた竹入が、「仲裁」を頼んだのが田中

幹事長ということだった。

田中は竹入に〝あのとき〟の恩を返さんとばかり、たびたび藤原に接触

するなど汗をかいたが、しかしこれは裏目に出た。

こんどは藤原が、「田中幹事長から圧力があった」と口にしたものだから、

公明党はさらに窮地に立たされることになったのだった。

メディアもまた、騒ぎ立てた。

「なんとかなりませんか」と泣きつく竹入や公明党幹部を前に、田中は

言ったのだった。

「しゃあないな。それなら、ワシが勝手におせっかいをやいたことにして

おけばいい」

裏で田中が藤原とどう折り合いをつけたかは〝藪の中〟だったが、「田中が

おせっかいをやいた」ということで、結局、この一件はウヤムヤになって

しまった。公明党も創価学会も、これでからくも窮地を脱することが

できたということだった。

後日、池田会長は竹入や公明党幹部を前に、こう言ったとされている。

「田中さんへの恩義は、決して忘れてはいけない。いつか総理にしたいな。

おもしろい政治をやるかも知れない」

こうした「言論出版妨害事件」の〝解決〟から約2年後の昭和47(1972)年7月、

その田中が首相の座に就いた。

「決断と実行」の政治をスローガンにしていただけに、政権を取ると一気に

「日中国交正常化」へ向けて動いた。その裏で、〝先遺隊〟として一足先に

訪中、中国側の考え、主張をいわゆる「竹入メモ」としてまとめ、田中に

提示していたのが時の公明党委員長・竹入義勝だった。

田中はそのメモから国交正常化交渉への戦略を練り上げ、ついには正常化を

成し遂げたということだった。

その後、やがて自民党と公明党は連立政権を組み、令和元(2019)年10月で、

この連立はじつに20年の長きを迎えるに至っている。

田中のあのときの「親分力」としての泥のかぶり方あってこそ、いま

「自公」連立政権として、とにもかくにも政治の安定を支えていると

言って過言ではない。仮に、田中角栄と池田大作の出会いとアウンの

呼吸がなかったら、この国の政治も大きく変容したものになっていた

可能性がある。

 

 

 

この続きは、次回に。

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