お問い合せ

田中角栄「上司の心得」⑧

● 後藤田正晴いわく、「田中さんは“部下に花を持たせる達人”だった」

 

「私も官僚時代、田中さんに予算獲得の陳情を何回かしたことがある。

とにかく、のみ込みが早いのには驚いた。一を言えば、すぐ十を理解する。

また、『分かった』と言ったことは100%実行してくれた。それも極めて

事務的に処理、押しつけがましいことは微塵もなかった。ここが、凄い

ところだ。決定したあとも、『あの件は君の言うとおりになった』と、

決まって電話をくれたものだった。やりっ放しではない。

そのうえで、その陳情成果をあとは知らん顔、自分の力であることを

見せつけることが一切なかったのも、他の議員とは一味違っていた。

まぁ君の熱意にちょっと手助けしただけだといった感じで、じつにサラリと

していた。成果を得た官僚は、上司にも顔が立つ。要するに、田中さん、

〝部下に花を持たせる達人〟だったということだ。

こんな感じだから、陣笠代議士としてまだ自民党内での序列が低かった

頃でも、先輩の政治家、官僚にはなかなか気にいられていた。

このあたりが、田中さんがやがて官僚社会を圧巻したと言われるように

なる〝原点〟だ」

のちに田中角栄の「懐刀」と言われるようになった後藤田正晴・元官房

長官に、筆者がインタビューをしたときの弁である。

後藤田は、警察庁長官時代に「カミソリ」の異名を取ったほどのキレ者

だった。田中に乞われて政界入り、やがて実務能力の高さや高潔ぶりから、

たびたび自民党内の一部から首相候補に推された人物である。

しかし、そのたびに後藤田のセリフは決まっており、「人には自ずと

分際というものがある。〝床の間〟にすわって似合うものもおれば、

似合わない者もいる。私は後者だ」とし、固辞し続けたものであった。

その後藤田と田中の初めての出会いは、昭和27(1952)年の暮れであった。

後藤田は田中より4歳上の38歳、当時、国警本部(警察庁の前身)警備部

警ら交通課長であった。田中は衆院当選3回ながら、すでに予算委員会の

メンバーに定着、鼻下に髭をたくわえて「チョビひげ野郎」との異名も

あったくらいで、口八丁手八丁の〝ヤリ手〟として知られていた。

後藤田は冒頭の言葉に加え、次のようにも言ったものだった。

 

 

 

この続きは、次回に。

トップへ戻る