続「道をひらく」松下幸之助 ③
・フシの自覚
この世の中、人の一生いろんなことがあるもので、何にもなくて平穏
無事、そんなことはなかなかに望めない。だから時に嘆息も出ようと
いうものだが、けれどもそのいろんなことのつらなりのなかにも、
おのずから何らかのフシというものがあるわけで、何がなしにダラ
ダラといろんなことがつづいていくわけでもない。
ダラダラとつづいているように思うのは、そのつらなりのなかのフシを
見すごしているからで、だから心も改まらなければ姿勢も改まらない。
大事なことは、このフシを見わけ、自覚し、そのフシブシで思いを
新たにすることである。
これがわかり、これができれば、いろんなことがすべてプラスになり
進歩の糧となって、次々と起こることをむしろ歓迎するようにもなる
であろう。
フシは自然に与えられる場合もあるし、自分でつくり出していく場合も
ある。いずれにしても、とらわれない心でものを見、考え、ふるまう
ことである。むずかしいことかもしれないが、やっぱりこれがいちばん
大事なことではなかろうか。
● 平穏無事
穏やかで、何も変わったこともなく安らかであること。
また、そのさま。「一家の―を祈る」
・心の力
ウルシにかぶれやすい人がいる。その人に眼をつぶってもらって、柿の
葉でサラサラと手をなで「ウルシの葉にさわったよ」と言う。と、たち
まち全身にかぶれの現象が起こってきて、その人はもがき苦しむという。
心に思ったことが、そのまま形にあらわれてくる一つの例であろう。
心の作用というものは不思議なものである。〝なせばなる〟ということ
も〝ならぬは人のなさぬなりけり〟ということも、単に精神主義とだけ
では片づけられない人間の本質の一面をついているように思われる。
この不思議な心の作用も、昨今のようにこうも物が豊富になってくると、
いつしか物のみにもたれてしまって、心の力が力として働いてこない
ようになりがちである。いうなれば喪心である。
心があって物があって、その心の力が物の力を支配して、はじめて人と
しての真のゆたかさが生まれてくる。物心一如か心物一如か、いずれに
してもせっかくのこの人間の心の力を、もっともっと認識し直したい。
この年のはじめに、シャンとしてもう一度考え直してみたい。
● 喪心
1. 魂が抜けたように、ぼんやりすること。放心。「落胆―する」
2. 意識を失うこと。気絶。失神。「落雷のショックで―する」
● 物心一如
物と心は一体であること。
● 心物一如
「心身一如」とは「身心ともに充実していること」「物事に一心に集中
しているさま」「心と身体は一つであること」などを表した言葉です。
この続きは、次回に。