Think clearly シンク・クリアリー ㉕
25. 死よりも、人生について考えよう—人生最後のときには思いを
めぐらせても意味がない理由
□ よい死を迎えるよりも、よい人生を過ごす
「いつか、私が死の床で人生を振り返ったら—-」
こういうセリフはあなたもどこかで耳にしたことがあるだろう。なんだか崇高な思案の
ように思えるが、そこに思いをめぐらせてみても、実はほとんど意味がない。
まず、死の床にあって、そこまで意識がはっきりしている人はまずいない。
現代の三大死因は、「心筋梗塞」と「脳卒中」と「癌」だが、最初のふたつの場合、
死の直前に哲学的な思いをめぐらす時間はない。癌の場合も、ほとんどの人が多量の
鎮痛剤を投与されているため、はっきりとものを考えるのは難しい。
(中略)
それに、こちらのほうがもっと重要なのだが、死の直前にどう感じるかは「それまでの
人生とはまったく無関係」なのだ。
だから、死ぬときのことを考えてみても何もならないし、死の瞬間についてばかり
考えていたら、よい人生を過ごすことから意識がそれるだけだ。
前述したように、ノーベル賞受賞者のダニエル・カーネマンは、記憶の誤りをいくつか
指摘している。そのうちのひとつが「持続の軽視」である。
起きた出来事の長さは、記憶に影響しない。つまり、旅行をした期間が三週間だろうと
一週間だろうと、あとから振り返れば残っている記憶に差はない。
そして旅行全体の印象は、そのピークと終わりの部分だけで決められてしまう(第22章
で取り上げた「ピーク・エンドの法則」である)。
映画でも、観ている最中は楽しめたとしても、結末に満足できなければいい映画として
は記憶に残らない。同じことはパーティーにも、コンサートにも、本にも、講演にも、
住まいや人間関係にも当てはまる。
□ キャリアのピークに亡くなった俳優が印象に残るわけ
人生の場合も、やはりその「最後」がどうだったかで、よい人生かどうかが決まるの
だろうか? 例を挙げて考えてみよう。
(中略)
つまり、「ピーク・エンドの法則」は人生に対しても作用する。驚いたことに、ピーク
を過ぎたとはいえ書いた気に過ごした最後の五年間は考慮されないのである。
顕教者たちはこの結果に「ジェームス・ディーン効果」という気の利いた名前をつけて
いる。
ジェームス・ディーンは、俳優としての輝かしいキャリアのピークに二四歳の若さで
事故に遭って亡くなった。彼がその後何年も、あるいは何十年も、それなりに成功
したそれなりに幸せな俳優として生きていたとしたら、彼の人生がこれほどまでに
人々の目に魅力的に映っていなかったのは確実だろう。
□ 脳は「継続した時間」を判断できない
(中略)
前の質問以上に合理的とは言えない結果だが、継続した期間を問題にしない、
脳の「持続の軽視」の典型的な例だ。
□ 「加齢」と「死」は、よい人生の代価である
つまり、まとめるとこうなる。ある人生が魅力のある人生かどうか、私たちには
きちんと判断ができない。脳が、事実を客観的に認識できないからだ。
(中略)
多くの人は、長い年月をかけて、体力や精神力がだんだんと衰えた後に死を迎える。
そして身体機能の衰えが大きければ大きいほど、完全な健康体だったそれまでの数十年
よりも日々感じる幸福度は低くなる。
では、私たちは「死」とどう向き合えばいいのだろう?
まず気をつけなければならないのは、人生最後の体の衰えた時期だけで、あなたの人生
を評価してはいけないということだ。ひどい人生を送った後に理想的な死を迎えるより
も、よい人生を過ごした後に死の床でつらい数日を過ごすほうがずっといい。
「加齢」と「死」は、私たちがよい人生を過ごせたことに対する代価だと思えば
いい。
おいしいディナーには、高額な請求書がつきものだ。カリーヴルスト(カレーソーセー
ジ)に高いお金を出すつもりはないが、一級品のワインを飲みながら、すばらしい人たち
とともに味わう星付きレストランの降るコースになら、私は喜んで代価を払おう。
結論。「どれだけ長生きできるか」を競うのは品がない。よい人生を過ごすほうが、
よい死を迎えるよりずっと大事だ。
だから、よい人生の条件については考えてみる価値があるが、死については考えてみて
も意味がない。死について考える意味があるのは、せいぜい、あなたの一番嫌いな敵の
死を願うときくらいだ。そう言うとあなたは驚くかもしれないが、敵の死を願うのは
ただの精神衛生上の問題にすぎない。
古代ローマの哲学者、セネカが指摘しているとおり「心配することはない。
あなたが小指一本動かさなくても、あなたの敵もいつかは死ぬ」のだから。
この続きは、次回に。
2024年11月19日
株式会社シニアイノベーション
代表取締役 齊藤 弘美