Think clearly シンク・クリアリー ㉜-1
32. 「精神的な砦」を持とう—運命の女神の輪
□ 学者ボエティウスの最後の著作『哲学の慰め』
ドン、ドン、ドン。西暦五二三年のある朝、学者ボエティウスの家のドアを、誰かが
ノックした。
当時四○歳前後だったボエティウスは、いくらか尊大なところもあるが、社会的に成功
した高名な知識人だった。彼は、上流階級の出身で最高レベルの教育を受け、テオドリ
ック王統治下の東ゴート王国のローマで、最高位の役職に就いていた。模範的な結婚生活
を送り、彼の子どもたちも成功をおさめていた。
またボエティウスは、彼が人生でもっとも情熱を傾けていた、ギリシア語からラテン語
への書籍翻訳の時間を日々確保することもできていた(当時、ギリシア語の古典をオリ
ジナルで読める人はほとんどいなかった)。
その朝、彼の家のドアがノックされたとき、ボエティウスの豊かさや、名声や、
社会的地位や、創作力は、人生のピークに達していた。
だがボエティウスは、あっさりと、拘束された。彼は、テオドリック王への反逆に与し
た嫌疑をかけられたのだ。そして、法廷に出席することのないまま、死刑判決を受けた。
土地も、財産も、蔵書も、屋敷も、絵画やすばらしい衣類も、彼が所有していたものは
すべて押収されてしまった。
牢獄でボエティウスは、最後の著作となった『哲学の慰め』を書きあげ、投獄から一年
後、高い身分にふさわしく、剣を使って死刑を執行された。ボエティウスの墓は、パヴ
ィア(ミラノの南約五○キロメートル)のサン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会に
ある。
『哲学の慰め』は中世にもっとも多く読まれた本のひとつだ。その時代に広く読まれた
本のほとんどはキリスト教関連だったが、この本は例外だ。
では、この『哲学の慰め』にはどんなことが書いてあるのだろうか?
(中略)
□ 「つらい状況を乗り切る」ための四つのアドバイス
ボエティウスの『哲学の慰め』という女性が教えてくれたこと—-つらい状況を乗り切
るためのアドバイス(もちろん実際にはボエティウスからのアドバイスなのだが)をまと
めると、おおよそ次のようになる。
ひとつ目は、運命の存在を受け入れること。
ボエティウスの時代は、運命は女神「フォルトゥナ」として擬人化されていた。
この女神は絶えず「運命の輪」(フォルトゥナの輪と呼ばれている)を回していて、輪が
回るたびに、人間たちの最高の時期と最悪の時期が入れ替わる。
「運命の輪」に乗って成功を手に入れたければ、いつかはまた運命が下り坂になるのを
受け入れなくてはならない。だから運命のアップダウンをあまり深刻に受けとめすぎな
いほうがいい。状況はそのうちまた変化するのだから。
ふたつ目は、あなたが所有しているものも、大事にしているものも、愛しているものも、
すべては永遠でないと理解しておくこと。
あなたの健康も、人生のパートナーも、子どもも、友人も、家も、財産も、故郷も、
評判も、社会的地位も、すべては時とともに移ろう。
だから、それらを執拗に手に入れようとするのはやめよう。気楽にかまえて、運命が
それらを与えてくれたときには感謝すればいい。
そして、運命が幸運を与えてくれているあいだは、それは脆くはかなく、永遠に続きも
のではないと常に覚えておくこと。一番いいのは、それらはあなたに一時的に貸し出さ
れただけのもので、いつまた取り上げられてもおかしくないのだと思うことだ。
遅くとも、死ぬときにはすべて失ってしまうのだから。
三つ目は、もしあなたがボエティウスのようにすべてを、あるいは多くのものを失った
としても、あなたの人生にはよいことのほうが多く(そうでなければ失ったものを惜し
まないだろう)、よいことにも負の要素はつきものだったことを忘れないこと。
そして四つ目は、あなたの思考や、思考の道具や、不運の損失や状況の悪化に対する
精神的な対処法だけは、誰もあなたから取り上げられないということだ。
あなたの「精神的な砦」といってもいいだろう。
どこからも襲撃されない、あなただけの領域だ。
きっとあなたは、ここで挙げたアドバイスをすでにどこかで聞いたことがあるか、読ん
だことがあるだろう。ボエティウスにとっても、これらは新しい概念ではなかった。
どれも、哲学の一派であるストア派の原理だ。
ストア派について、よく知らない読者もおられるかもしれない。少し説明をすると、
ストア派は、紀元前四世紀 (つまりボエティウスが生きた時代のおよそ一○○○年前)の
アテネに起源を持つ実践的な哲学の一派で、紀元後最初の二○○年間、ローマでは主流
学派のひとつに数えられていた。
ストア派の代表的な哲学者には、大富豪だったセネカや、奴隷階級のエピクテトス、
第一六代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスらがいる。
驚いたことに、今日にいたるまでストア派は、日常生活における疑問に実践的な答えを
提示している唯一の哲学の学派である。それ以外の学派や傍流の理論は、知的刺激は
与えてくれるが、人生の課題の克服にはほとんど役に立たない。
ボエティウスは、キリスト教がヨーロッパ人の意識をもうろうとさせ、自分の人生の
責任を虚構(神)にゆだねてしまう前の最後のストア派哲学者の一人だ。ヨーロッパの
人々の意識にかかった霧が晴れたのは、その後一○○○年も経ってからである。
だが、霧が晴れてすばらしい日の出を迎えた後もストア派の思想が注目されることは
なく、いまだに日陰の存在のままである。それでも、ストア派の思想は、そこここで
光を放っている。
この続きは、次回に。
2024年12月5日
株式会社シニアイノベーション
代表取締役 齊藤 弘美